2026年10月7日
狩猟家という肩書きや
無愛想な見た目から、
ずっと運動畑を歩んできた人間だと
思われがちな僕だが、
それは誤解だ。
実は、
学校での部活動は全て音楽系だった。
中学では吹奏楽部でトランペットを吹いていた。
高校でも吹奏楽部に入った。
トランペットを続けようと思ったが希望者が多く、
みんな僕より上手だった。
ちょうどそのときにテレビで
ロン・カーターというジャズベーシストが
サントリーのウィスキーのCMに出ていた。
「渋っぶいなー」と目が釘付けになった。
合奏では通常主役とはならない
低音の魅力に気付かされた。
コントラバスは吹奏楽部唯一の弦楽器だ。
先輩に手取り足取り教えてもらい、
生まれて初めての弦楽器にチャレンジした。
弦楽器で最も大きいコントラバスは
弦が太くて長い。
音を出すだけでも難しいし、
押さえるのには力がいる。
それでもハーモニーの土台を支える
縁の下の力持ちのようなコントラバスは
とてもやりがいのある楽器だった。
定期演奏会のメイン演目には、
クラシックの曲が選ばれることが多かった。
3年生は大学受験で引退となるので、
ステージには2回乗った。
1年生ではデュカス「魔法使いの弟子」、
2年生ではベルリオーズ「幻想交響曲」から
4楽章と5楽章を演奏した。
全くの初心者には挑戦的な選曲で
きちんと弾けたわけではないが、
とにかく楽しかった。
大学に入ってからしばらくは
部活動はせずにフラフラと遊んでいたが、
結局オーケストラに入り
コントラバスを弾くことにした。
すると欲が出て、
自分の楽器が欲しくなった。
思い切って、父に相談を持ちかけた。
「中高大学と公立校、
塾にも行かず浪人もせず、
教育費が浮いているはずなので
楽器だけは甘えさせてほしい」
と横紙破りな論陣を張った。
無謀と思えた交渉は成功した。
大学にコントラバスを教えに来ていた
東京シティフィル首席コントラバス奏者(当時)
の西澤誠治先生が
僕向きの楽器を探してくれた。
そして僕は、
チェコ製の大ぶりな5弦コントラバスと
ドイツ製の弓を手に入れた。
以来、授業はサボってばかりいたが、
部室には入り浸る生活を送っていた。
演奏会では、
ラフマニノフ「交響曲第2番」
ブルックナー「交響曲第4番」
ドボルザーク「交響曲第7番」
ショスタコーヴィッチ「交響曲第5番」
などを弾いた。
1994年、22歳で商社に入社してからは、
コントラバスを演奏する余裕はなかった。
テレビ局に転職してからは転勤も多く、
結局は楽器も弓も手放してしまった。
このままもう一生、
コントラバスを弾くことはないと思っていた。
ところが演奏から遠ざかって
30年以上が経過した2025年。
転機が訪れた。
僕はテレビ局を辞めてフリーになり、
北海道の苫小牧市で暮らしていた。
ひょんなことから
苫小牧市民管弦楽団の団長を務める
コントラバス奏者と知り合った。
練習会場には楽団の予備楽器もあるそうで、
「一度見るだけでも」と練習に誘われた。
しかしオーケストラは生半可な気持ちではできない。
合奏では一人が弾けていないと
全体に迷惑をかける。
30年以上のブランクがある自分には
絶対に無理だと思った。
さらに前年、家のリフォーム作業の最中に
左手の親指先端を骨折し
骨がくっついた後も痛みが残っていた。
コントラバスは右手で弓を操り、
左手でネックを握って弦を押さえる。
左親指にも相当な負荷がかかる。
以前のように弾けるとは考えにくい。
しかし結局、
久しぶりに楽器に触りたいという欲求には
抗えなかった。
そして練習会場に足を運んだ僕は、
あろうことか、
その場で入団を決めてしまったのだった。
半年後の10月が
年に1度の定期演奏会だった。
メインはベートーヴェンの交響曲第5番、
「運命」だった。
実際に練習してみると、
左親指の調子は思ったより悪くなかった。
難しいパッセージが多かったが
本番までにはなんとかしたいと
家で個人練習を重ねた。
ところが7月、
道東にヒグマ駆除の現場を取材しに行った際に
僕は猟犬に左手を
思い切り噛まれてしまった。
「噛む犬だから気をつけろ」と言われていたのに
ちょっと仲良くなった気分になり、
油断した僕が悪い。
親指の付け根一帯、
手のひらの裏表に牙が深く食い込んだ。

そのまま病院に直行し、
破傷風にならないための治療を受けた。
医師は牙で開いた穴に鉗子を突っ込み、
先端を開いて穴を広げ、
消毒液で入念に洗浄した。
作業を見ていると逆に痛みが増す気がして
僕は窓の方を向いて
気を紛らわすために別のことを考えるようにした。
入院を勧められたが
僕はどうしてもその日のうちに
苫小牧に帰らなくてはならなかった。
傷口を縫ってしまうと
化膿した場合に重症化するとのことで、
そのままガーゼを当てて包帯を巻かれた。
痛む左手でマニュアル車のシフトレバーを握り、
6時間以上運転して帰宅した。

翌日からは地元の病院に通った。
動物の口に繁殖する雑菌は強力で、
徹底して洗浄する必要がある。
早くも癒着しつつある傷口に
再び鉗子が突っ込まれて広げられる。
問答無用の容赦ない治療だった。
消毒液に浸された綿棒で
穴の中をグリグリ拭かれる。
目をつぶってひたすら深呼吸を繰り返した。
その次の日も同じ治療が行われた。
当座の治療としては十分と思われるので
しばらく様子を見ましょう、
と言われたときには心底ホッとした。
10月までに傷は治ると思われたが、
しばらくの間は
楽器を弾くことができない。
きちんと曲を仕上げられる自信がなく、
出演を諦める旨を団長に伝えた。
演奏会当日は客席から「運命」を鑑賞した。
せっかくオーケストラに復帰したのに、
心残りな結果となってしまった。

2026年の定期演奏会は
10月4日に行われることになった。
メインはベートーヴェンの交響曲第9番、
「第九」だった。
4楽章ではソリストや合唱団が入り
「歓喜の歌」を歌うおなじみの曲だ。
会場は3月にオープンしたばかりの
苫小牧市民文化ホールで、
その開館記念事業でもあった。
合唱団120名以上、
オーケストラ80名以上、
総勢200名を超えるメンバーがステージに立つ
一大イベントだ。
今年こそは絶対にそのステージに立つと
心に決めた。
ありとあらゆる曲の中で、
僕にとって第九ほど魅力的なものはない。
世界で一番、弾きたい曲だ。
思い入れも人一倍ある。
理由の発端は、僕が小学生の頃に遡る。
===
元々ベートーヴェンが好きだったのは父だった。
何事も教育熱心だった父は、
カセットテープを買ってきては
僕にベートーヴェンの交響曲を聴かせた。
退屈しているのが父に知れると怒られる。
当時の僕とっては苦痛の時間だった。
そして小学校3年生のとき、
突如父は
第九の市民合唱団への参加を決めた。
自分だけならまだしも、
家族全員でだ。
父はバス、母はアルト、
声変わり前の僕はソプラノを歌うことになった。
小学生が第九を歌うなど珍しく
合唱団の皆さんには可愛がってもらったが、
学校では格好のからかいの的となった。
演奏会本番では、
最初は客席に学校の同級生がいないかが
気になって仕方がなかった。
しかし歌い始めると夢中になり、
あっという間に本番は終了していた。
拍手が鳴り響く中、
指揮者の山田一雄先生に花束贈呈が行われた。
山田先生はそのまま
合唱団が立つひな壇まで歩いて来られて
僕にその花束を渡して下さった。
観客の注目が僕に集まり、
割れるような拍手が起きた。
ちょっと恥ずかしかったが嬉しくもあった。
誰よりも両親がそのことを喜んでくれた。

これで父も満足したかと思ったが、
甘かった。
翌年も父は当然のごとく
第九の合唱団に参加申し込みを行った。
もはや我が家の年中行事である。
実は父には目論見があった。
僕に1年目はソプラノ、
2年目はアルトを歌わせ、
声変わりと共にテノール、
そして最後は
自分と同じバスを歌わせようと
たくらんでいた。
「第九の全パートを歌ったことがある人なんて
きっと未来雄が初めてだぞ」
嬉々として語る父に僕は恐れ慄いた。
父の構想のままに物事が進むと、
僕は中学でも、
もしかしたら高校生になっても
家族で第九を歌い続けなくてはならない。
そんな恥ずかしい思いはしたくなかった。
だったらそもそも
合唱団に参加することを拒否すればいい。
しかし
すぐ体罰を加える父にそう言う勇気は
当時の僕にはなかった。
だからせめてもの抵抗を試みた。
本当はアルトを歌えないことはなかったのだが、
自分には音域が低すぎると言い張って
再びソプラノを歌ったのだ。
父のがっかりした顔を見て
ちょっと申し訳ない気にもなったが、
ここでアルトを歌ってしまったら
父を勢いづかせることになる。
悪夢が現実にならないよう、
少しでも芽を摘んでおいて良かったと思い直した。
結局、
僕らが第九を歌ったのはその年が最後となった。
父が胃癌を患ったからだ。
もちろん病気は心配だったが、
これで第九を歌わなくて良くなったという
安堵感もあった。
幸いにも手術は成功し、
父が早逝することはなかった。
そして父への反抗心が募る傍ら、
いつしか第九のことは
大好きになっていた。
多感な時期に
2年間もどっぷり浸かったのだから無理もない。
大人になったら
父からの強制ではなく
自分自身の意志で、
いつかまたステージに立ってみたいな、と思った。
もちろん、当時はオーケストラの一員として
その夢が叶うとは想像だにしていなかった。
===

2026年。
僕にとって、
この年に第九を弾くということには
大きな意味があった。
僕は54歳になっていた。
ベートーヴェンが第九を作曲し始めたのが52歳。
完成させたのが53歳で、
初演の舞台に上がったのがまさに54歳なのだ。
オーケストラを続けることになれば、
もしかしたら第九をまた演奏する機会にも恵まれるかもしれない。
しかし、54歳で弾けるのは今回だけだ。
あまりにも偉大すぎて
等身大の人物像が見えないベートーヴェン。
なんだかずっと年上のように思えてしまう。
でも、ベートーヴェンの人生にも僕の人生にも
時間は等しく流れている。
ベートーヴェンは54歳で
人生の最高傑作を世に送り出した。
学聖と呼ばれる偉人とは比べものにならないが、
僕も同い年ではある。
文章で生きてゆこうと決め、
表現の世界に身を投じた僕は
第九から何を汲み取ればいいのだろうか。
まず考えたのは、
横溢する精神と衰える肉体との整合性を
どう取ってゆくのか、という問題だ。
表現したいものは多々あれど、
やはり創作には体力も必要だ。
ベートーヴェンの場合は体調不良に加え、
耳もほとんど聞こえなくなっていた。
音楽に最も必要な聴覚が失われるという恐怖に、
ベートーヴェンはどう対峙していたのだろうか。
体の機能が衰えるということは、
遠くにぼやけていた死の輪郭が
徐々にはっきりしてくるということだ。
人生に無限の選択肢があると思えるのは
命が有限であることを
また実感できていないからだ。
僕自身、若い頃とは考え方が変わってきた。
あれも、これも、はもうできない。
もし明日死ぬとしたら、今日何をするだろう。
そうしたことを考える内に培われてきたのは、
余計なものを削ぎ落とす潔さだ。
限られた時間の中で
最後に残すべきものを明確にし、
そこに全力を注ぐのだ。
人生を四季に例えると、
今は秋。
木々が葉を落とし、
実をつける季節だ。
果実は、次世代に命を繋ぐために存在する。
自分の集大成を大地に落とし、
新たな命として生まれ変わらせるのだ。
そこにどんなビジョンを描き、
どんな想いを託すのか。
考えてばかりではいられない。
冬はもうすぐそこまで来ている。
これからの人生の歩み方について
相当に考えさせられたが、
あまり話を広げすぎても
思考がまとまらない。
まず、今回の演奏会で言えば、
何が大切か。
そのために何を削ぎ落とすべきか。
一番大切なのは、
シンプルに、いい演奏をすることだ。
「歓喜の歌」は端的に言えば、
人類全体の平和と博愛への讃歌だ。
そのメッセージを、
未だに戦争が終わらないこの世界に届ける。
先行きが見えず
閉塞感に満たされた時代に、
あらゆる艱難辛苦を乗り越え
信じる道を突き進んだベートーヴェンの
不屈の魂の力を呼び覚ます。
合唱団は歌で、
オーケストラは旋律で、
それを表現しなくてはならない。
実は、第九はあらゆる交響曲の中でも屈指の難曲だ。
歓喜の歌のメロディラインは子どもでも歌えるだろう。
そこだけ聞けば簡単な曲に思えるが、
背後には指が何本あっても足りないような
高速かつ複雑なパッセージが連続している。
高校、大学と7年間コントラバスを弾いてきたが、
ここまで技術力を求められる曲は初めてで、
楽譜を見た瞬間にクラクラしてしまった。
西澤先生に聞くと、
「プロでも完璧に弾くことは難しい」
とのこと。
さらに演奏時間は1時間を超え、
出番も多い。
力を込めて弦を押さえる左手は限界を迎えるが、
ベートーヴェンは一切容赦してくれない。
ひっきりなしの山場が怒涛のように押し寄せる。
その第九に、
30年以上のブランクがある自分が挑むのだ。
当然、プロのように弾きこなすことはできない。
でも、アマチュアなりのベストを尽くす。
及ばない領域は多々あれど、
悔いのない第九を作り上げる。
観客の心を震わせる音楽を届ける。
それにはとにかく、
練習あるのみだ。
練習時間を捻出するため、
僕は大きくふたつのことを諦めることにした。
ひとつは、カナダ・ユーコン行きだ。
狩猟採集や先住民の世界観について
もっともっと深く学びたい。
テレビ局を辞めたのも
そこに心置きなく注力したいからという
理由が大きい。
特に9月はヘラジカ猟のシーズンで、
師匠のキースにはいつも
「9月に来い」と言われる。
でも今年は行けない旨の連絡を入れた。
毎週水曜日に練習があるし、
本番を1ヶ月後に控え、
週末には
より大規模な強化練習も予定されている。
個人練習なら自分だけでもできるが、
皆が一丸となって
音楽を練り上げなくてはならない時期に不在となり、
本番直前に帰国して
いきなりステージに乗るのは、
楽団員や観客、
そしてベートーヴェンに対しても
礼を失すると考えた。
ふたつめは、猟期開幕から山に入ることだ。
北海道では10月1日から狩猟が可能になる。
今までは必ず、
初日から狩猟に出た。
必要性に駆られてのことではない。
仮にも「狩猟家」と名乗る人間としての
儀式のようなものだ。
演奏会は10月4日なので、
10月1日だけ山に入れば
名目上は事足りる。
しかしそれはそれで、
今度は山や獲物に対して失礼なことに思えた。
二兎を追うものは一兎も得ず。
迷いを振り切り、
とにかく第九に集中すると覚悟を決めた。
楽器と弓も、
借り物ではいけないと思い、
再び手に入れることにした。
自分なりの決意表明だ。
楽器はオーケストラのOBから、
弓は西澤先生から譲り受けた。
ところが今年も試練が訪れた。
本番まで2ヶ月を切った8月6日。
僕は冬に向けて
薪作りの作業をしていた。
片手で握れるサイズの木を左手で握り、
大きな丸鋸で切っていたとき、
突然刃が丸太に噛んでしまった。
強大なトルクで
僕の手は丸太とともに回転し、
ストッパーの鉄板に激突した。
中指の先端が腫れ上がった。
単なる打撲であること祈ったが、
思うように痛みが引かない。
二日後に病院に行き
レントゲンを撮ってもらった。
結果、骨折していることが分かった。
骨がつくのに4〜6週間かかり、
それ以降も
痛みが残るかもしれないとのことだった。

この時期に、骨を折る。
自分の軽率さに嫌気が差した。
またなぜ
大事な左手ばかりに受難が続くのか。
2023年に親指骨折、
2025年に犬に噛まれ、
2026年に中指骨折。
一体どうなっているのだろう…。
しかし前年と違い、
演奏会を諦めるという選択肢はなかった。
今回のステージに乗らなければ
一生後悔することは目に見えていた。
プロレスラーだって骨折したままリングに上がるさ、
と僕は虚勢を張った。
加えて言うなら、
ベートーヴェンは耳が聞こえない試練を乗り越え、
第九をこの世に送り出したのだ。
それに比べれば
中指の骨折などかわいいものだ、
とうそぶいた。
ところが実際に楽器を弾いてみると
今まで通りに中指で弦を押さえることは
まるでできなかった。
西澤先生に相談すると、
「ならば薬指を使え」
と教えてくれた。
実際に中指の代わりに薬指を使う
「イタリア式」という奏法があるそうだ。
調べてみると、
確かにネットでも情報がヒットしてくる。
早速試してみたが、
薬指は中指ほどに力が入らず、
きちんとした音を出すことはできなかった。
結局、中指の先端ではなく
第一関節付近で弦を押さえ、
騙し騙しで弾く形に落ち着いた。
プロでも難しいという曲が
ごまかしの練習で
弾けるようになるはずがない。
それでも、やれることをやる。
今はそれしかない。
思うように楽器が弾けないこともあり、
楽譜を見ながら曲を何度も聴く、
いわば脳内トレーニングも行った。
「スコア」という
全ての弦・管・打楽器、合唱までの楽譜が
1冊にまとめられている本も購入し、
各パートのメロディが
どのように組み合わさっているのかも見てみた。
詳細な設計図を見ているようで、
発見があると同時に
色々な疑問も湧いた。
まずはフィナーレについて。
これは実は既に小学生の頃から
うっすらと引っかかっていたことだったが、
改めてスコアを見たことで
より鮮明に浮かび上がってきた。
4楽章は940小節まであるのだが、
合唱は920小節目で終る。
最後はオーケストラだけになってしまうのだ。
4人のソリストに至ってはその遥か前、
出番は842小節目までだ。
しかも歌い上げる感じではなく、
結構切ない感じで消えてゆく。
そして残りの98小節は
黙って座ったままだ。
なんともったいないことか。
そして合唱団やソリストを
交響曲に加えたことが
第九の斬新さなのであれば、
やはりラストスパートにも
歌い手たちが加わり、
全員で最後の音を響かせた方が
ボルテージが上がる気がするのだが…
さらにスコアをよく見て驚いたのが、
楽譜に書いてある歌詞と、
実際に歌われている歌詞が
違っている部分があることだ。
最初は何かの間違いかと思った。
しかし調べてみるとミスプリントではなく、
「慣例として、楽譜とは違う歌詞で歌われる」
ということらしい。
「慣例って何?」
「なんでそんなことが許されるの?」
混乱は増すばかりだ。
基本的にクラシック音楽は
ジャズやロックと違い、
楽譜通りに演奏することが求められる。
音符や休符の長さも、
適当だとすぐ指揮者に怒られる。
しかしもし、本当に全てが
ガチガチに決められているのなら、
誰が演奏しても
全く同じように聞こえるはずだ。
ところが実際は
そんなことはない。
例えばテンポに関しては
相当な自由度が認められている。
指揮者によって遅かったり早かったり、
あるいは同じ指揮者でも
演奏によって変わったりしている。
個人レベルで言えば、
弦楽器のボウイング
(弓を右に動かすのか左に動かすのか)
はパートの全員で合わせることが求められる。
しかしフィンガリングは異なっても許される。
ある音程を人差し指で押さえようが
小指で押さえようが問題視はされない。
何を守らなければならず
何を守らなくていいのか。
判断が難しい。
どこまでが逸脱しないことを求められ
(著作権保護、法令順守)、
どこからが表現の自由
(基本的人権)
として認められるのか。
そのライン引きが、
僕は未だに理解できていない。
しかし、最大限に
自由が認められているものの中に、
「解釈」があることは確かだろう。
明るいメジャーコードの音を
「嬉しい」と捉えるのか
「楽しい」と捉えるのか。
暗いマイナーコードの音を
「寂しい」と捉えるのか
「悲しい」と捉えるのか。
各人がどう解釈しようと
それは個人の脳内のことであって
他人からは判定できないし、
正解も不正解もない。
それぞれで
性格も人生体験も異なるのだから、
解釈も異なって当然だ。
僕の場合で言えば
第九の各メロディには
否応なしに両親との思い出が絡みついてくる。
そして多分僕にしかない
「解釈」が存在する。
それは、
「第九はレクイエム」
というものだ。
ここでもまた、
父が関わってくる。
==
時計の針を少し戻し、2023年。
僕は苫小牧の自宅のリフォームに
汗をながす日々を送っていた。
認知症を患った父は、
東京の施設に入所していた。
ある日、ケアマネージャーから
父の容態がおかしいという電話を受けた。
その声色に
ただならぬ気配を感じた僕は
即座に空港に向かい、
夕方には施設に到着した。
ベッドに横たわる父は痩せ細り、
浅い呼吸を繰り返していた。
通常、面会は30分までだが
遠方から来たこともあり、
特別に2時間の滞在を許された。
ケアマネージャーは諸々の説明を終えると
父と僕を二人きりにしてくれた。
父に意識はなく、
たまに弱い呻き声を上げるだけだ。
会話にはならないので
手を握りながら、
僕は一方的に父との思い出を語った。
もちろん第九の話もした。
すると父の手に力が入ったのを感じた。
「父さん一緒に歌おう!」
わずかに顎が動くのが見えた。
父の手に指揮棒を持たせたつもりで、
一緒にタクトを振りながら歓喜の歌を歌った。
小学生の時に必死に暗記した歌詞は
きちんと脳内に残ってくれていた。
最後にまた我が家ならではの
家族行事ができたことが最高に嬉しかった。
しばらくすると疲れたのだろう。
父の手は力なく下がっていった。
時刻は19時近くになり、
退室の時間が迫ってきた。
すると
弱々しい呼吸を繰り返していた父が突然、
大きく息を吸った。
30秒後、息を吐き出しまた吸うと、
遂に呼吸が止まった。
人間はどう死んでゆくのか。
僕が最も知りたいことのひとつだ。
父はそれを息子に見せてやろうと、
北海道から僕を呼んだのだろう。
最後の授業。
僕は父の手を握り、
涙ながらに感謝の言葉をかけ続けた。
ふと、心肺は停止しても
まだ脳は機能していて
耳も聞こえているかもしれない、
という思いが心に浮かんだ。
だったら最後にもう一度だけ。
この歌と共に天国に昇ってくれ。
祈りを込めて
僕は再び第九を歌い始めた。
そのとき。
小さな奇跡が起きた。
父が呼吸を取り戻したのだ。
そして微かに「ア〜」と声を出した。
それが父の
本当に最後の吐息となったのだった。
心から愛した第九を
息子と共に歌いながら旅立つ。
これ以上に見事な
最終楽章があるだろうか。
元テレビマンの性分だろう。
父が旅立つと直感した瞬間から
僕はスマホの動画撮影ボタンを押していた。
尺は6分47秒だ。
見返してみて、僕は再び驚いた。
父が「ア〜」と歌った瞬間。
そこには、ベートーヴェンが
最も大切にしたメッセージがあった。
“Alle Menschen werden Brüder”
全ての人間が兄弟となる。
アーレ メンシェン ヴェルデン ブリューデル。
このアーレに合わせて
父は声を発した。
生涯最後のメッセージとして、
平和と博愛を歌い上げたのだ。
死までもがひとつの表現であることを、
父は身をもって僕に教えてくれた。
何度見ても感動が込み上げ、涙が出る。
このとき、父の目からも涙が流れていた。
きっと、喜びと共に召されてゆく
嬉し泣きに違いない。
こうして歓喜の歌はこの日から、
僕にとって個人的なレクイエムになった。
死を悼むための鎮魂歌ではない。
燃えるような生を駆け抜けたことを祝福する
力強い讃美歌だ。
そしていつか、
僕の、そのときにも。

==
中指の骨折から1ヶ月が経つと
痛みは随分軽減したが、
気付けば10月4日の演奏会まで
1ヶ月を切っていた。
僕は仕事をこなしながら、
隙間時間で練習を重ねた。
そして9月の後半は、
できるだけ予定を入れないようにした。
サラリーマンを辞めた強みだ。
絶対に無理と思っていたパッセージでも、
ひたすら弾いていると
徐々にではあるが上達する。
完全には弾けていないのだが、
なんとなく
「弾けたような気分」にはなれる。
もちろん、
それで許されるわけではないのは
重々承知である。
一方で、プロではないので
技術的な限界があることは
やむを得ないことでもある。
「過集中」と言われることが多々ある僕は
あるゾーンに入ってしまうと
自己制御が効かなくなる。
文章も一旦書き始めると
何時間でも机から離れない。
深夜になり明け方を超え
翌日の昼過ぎまで書き、
そのまま倒れ込んで12時間以上寝る、
と制御不能な状態に陥ってしまう。
楽器でもそれは同じで、
2、3時間ぶっ通しで弾いたり、
近くに家がないのをいいことに
深夜まで弾き続けたりすることも
度々だった。
もっと上手くなりたい。
まだ弾き足りない。
第九漬け、コントラバス漬けの日々は
至福そのもので、
僕は50代で再臨した
青春を謳歌している気分だった。
そしてアマチュアには、
アマチュアなりの強みがある。
それは「1ステージしかない」ということだ。
一発勝負だからこそ、
注ぎ込む想いは熱い。
音楽と野球は別物だが、
僕は甲子園のマウンドに立つピッチャーに
自分を重ねていた。
この打者を討ち取らない限り、
夏は終わってしまう。
それには次の一球を全力で投げるしかない。
そしてまた一球。
リーグ戦を戦うプロ野球選手ではない。
打たれたら明日はマウンドに立てない。
だからこの一球に託す。
肩が壊れたって構わない。
それでもこの一球に、
全てを賭ける。
そう、これは僕にとって
54歳の甲子園なのだ。
ところが、無我夢中で
コントラバスを弾き続けるうちに
本当に体が壊れてきてしまった。
本番3日前の木曜日。
酷使する左手の人差し指と
そこに繋がる前腕部の筋がこわばり、
固まってしまったのだ。
腱鞘炎の一歩手前だろうか。
痛みもひどい。
本番を目前にして、
手に覚え込ませなければいけないことが
まだまだたくさん残っている。
しかし、休まなくてはならない。
何をやっているんだ、と落ち込む。
このままではいけないと
ネットで店を調べ、
ハンドマッサージを
受けに行くことにした。
セラピストは僕の手に触るなり
「こんなにパンパンに
腫れている手は久しぶりです」
と目を丸くした。
それでも施術後はかなり楽になり、
翌金曜日はある程度練習できた。
本番前日の土曜日。
朝から舞台の設営を行なった。
120名の合唱団が乗るための
ひな壇を組み上げる。
リハーサル開始まで数時間あったので、
僕は再びハンドマッサージを受けた。
施術時間は倍にしてもらった。
午後4時からのリハーサルでは
団員のそれぞれが個人練習を重ね、
並々ならぬ気迫で臨んでいることが
感じられた。
第九に思い入れがあるのは
僕だけではないのだ。
きっと皆がそれぞれの物語を胸に携え
ステージに上がっている。
心が熱くなった。
僕の指も少しずつ調子が上がり、
ようやく回り始めた。
帰宅したのは21時。
また悪い癖が出た。
どうしても
楽器を触りたくなってしまったのだ。
そして案の定、止まらなくなった。
本番に向けて一人で練習するのも
これが最後だ。
音符の一つ一つが愛おしくてたまらない。
いつまでも喜びに浸っていたい。
朝が来なければいいのに、
と本気で思った。
気付けば夜が白んでいた。
時計を見ると5時を回っている。
さすがにベッドに入り、
無理矢理に仮眠をとった。
10月4日、本番当日。
空は気持ちよく晴れ上がり、
涼しい風が頬を撫でる。
こんなに爽やかな日はないと
目を細めながら
車で会場に向かった。
本番を前に着替えが始まる。
男性は黒いスーツ、
白いワイシャツ、
黒の蝶ネクタイだ。
糊の効いたシャツに腕を通すのは
久しぶりだった。
クリーニングのタグを見ると
3年前の日付だった。
スーツを着ると胸ポケットに
何かが入っている。
取り出してみると、
般若心経の経本だった。
スーツを着るのは、
3年前の父の葬儀以来だったのだ。
第九と共に旅立っていった父の姿が、
改めて脳裏に浮かぶ。

そして遂に本番が始まった。
暗い舞台袖から
まばゆいステージに出る。
1000近い人で
客席はいっぱいだ。
不思議と緊張はあまりなかった。
僕は譜面台に置いた楽譜の裏に、
親子3人の写真をそっと忍ばせた。
小学生のときの第九合唱練習で
誰かが撮ってくれたもので、
父が来ているトレーナーには
「歓喜の歌」のドイツ語タイトル
“An die Freude”とプリントされている。
母も美人に写っていて、
お気に入りの写真だ。
目を瞑って祈る。
「父さん母さん、
ようやくまた一緒に
ステージに上がれたね。
本当に久しぶりだね。
僕も歳をとったよ。
あの時の父さんと母さんより
5つも年上になってしまったんだもの。
今日は楽しもうね。
そして本番が終わるまで
どうか見守っていてください」
張り詰めた静寂の中。
指揮者がタクトを振り始める。
さあ、思う存分に奏でよう。
44年ぶりの家族行事が始まった。
本番はいつも
あっという間に終わってしまう。
小学生のときも、
高校も大学も、
それは変わらなかった。
この日もそうだ。
無心に音楽に集中しているうちに
楽章は次々に進んでゆく。
全部で1時間以上の大曲なのに、
すぐに4楽章に入ってしまう。
力強い合唱が響き始める。
歓喜を歌い、
平和を言祝ぎ、
天空の彼方に創造主を見出す。
どんどん曲は進む。
やめてくれ。
もう少し時間がゆっくり流れてくれたらいいのに。
ずっとここで弾いていたい。
父も母も
もっと歌いたいはずだ。
でも人生も、
きっとこんな風に
呆気なく終わってゆくのだろうか。
父も母も、
ベートーヴェンも、
そうだったのだろうか。
譜面の最後のページをめくる。
おびただしい数の楽譜が並ぶフィナーレ。
楽譜の裏表紙にあたる部分に
印刷されている。
本を閉じた状態だ。
そして
楽譜で隠れていた譜面台の右半分、
僕が写真を忍ばせていた場所から
両親が顔を出した。
圧倒的なテンポの速さで
最難関のパッセージになだれ込む。
半年以上かけても
一度もまともに弾けたことがなく、
何百回練習を繰り返したか分からない。
でも遂に、これが最後だ。
父が言う。
「未来雄、がんばれ!」
母が言う
「未来雄、がんばって!」
そうだった。
いつもいつも、
あの二人は
そう言ってくれたんだった。
「おう、しっかり見ててくれ!」
もう頭では何も考えていない。
手が勝手に弾いている。
心が奏でている。
力の限り走れ。
駆け抜けろ。
もっと速く。
もっと強く。
はばたけ!
思い切り弾ききった最後の音が
うねりながら天に昇る。
父さんと母さんが
歓声を上げながら駆け寄ってくる。
そして僕を
力一杯に抱きしめてくれた。

お問い合わせや
ご相談はこちらから。
お気軽にご連絡ください。
フォーム