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花を狩る




「いけばなと狩猟は、とても似ている。」

「というより、まるで同じだ。」



そんなことを言うと、

ほとんどの人は驚くのだろうか。






札幌に来て始めた池坊。

キャリアはまだ2年に満たない。



稽古は月に2回で、第2・第4木曜日。

私にとっては、休日に山に入る狩猟より

平日に通ういけばな教室の方が

スケジュール調整が難しい。

そのため、ずっとやりたかったのに始められず、

結局、狩猟の方を先に始めてしまった。

なんとか鹿は順調に獲れるようにはなったが、

いけばなの腕は一向に上がらない。






そんな私に、思わぬチャンスが巡ってきた。



札幌では毎年、

大手デパートの催事場を貸し切っての花展が行われている。

先生方の作品が一堂に会するイベントを

私も心待ちにしていたのだが、

残念ながら、コロナ禍により中止となってしまった。



その代わりに今年は、オンラインでの開催となり、

会場の面積という物理的な制約がなくなったためか

私のような素人でも出瓶することが可能となったのだ。



早速参加を決めたいいが、どんな花を生けたものか。

自分はいけばなを通じて何を表現したいのか。

考える羽目になった。






絵画や彫刻、様々なアートといけばなの

一番の相違点。

それは、生きた花、つまりは生命体そのものを

作品に使っていることだ。



命というものの

美しさへの賛美、

強さへの憧れ、

儚さへの共感、

などを最も端的に表現することができるのが

いけばなの強みであり、

また、いけばなを嗜む者の使命のように感じていた。

今回は、是非それを、

作品という形にしてみたいと思った。






稽古の時には

花屋さんが選んだ花材がセットになっていて、

先生と相談してどれをいけるか決める。

しかし今回はいい機会なので、

花材から自分で決めていきたい。

そもそも教室自体が緊急事態宣言により

休みとなっている。



まずは、自宅そばの花屋に行ってみた。

個性的な花が多く置いている店で、

名前も知らないインパクトのあるものがいつも並んでいる。

その店で、チランジア、スモークツリー、チゴユリ、

などを購入し、生けてみた。

あまり見たことのないような作品にはなったが、

何か違う気がした。

一体私は、何を、どうやって、表現したかったのか。

そもそものアプローチから変える必要性を感じた。






次の日。

私は山に向かった。

去年の秋、猟期1頭目の鹿を撃ったエリア。

春には、山菜採りにも通った。



狩猟の喜びとは何か。

それは、何時間も雪山を歩き、

ようやく鹿を見つけた時に感じる興奮。

群れの中から一番美味しそうな一頭を選び

「お前が喰いたい」と引き金を引くときの

動物的な衝動。

そして正しく解体し、

きちんと美味しい肉として食べたときの達成感。



いけばなでも同じような高揚感を感じ、

それを作品に込めたい。



何百万本あるか分からない山の木々の中から

これぞという枝振りの一本を選び、

咲き乱れる花の中から

心の通じ合う一本を摘みたい。

それが、山に生きたいと思っている者ならではの、

狩猟採集民と自称している者ならではの、

いけばななのではないだろうか。

花展に出す作品は、全て自分の手で採ったもので構成する。

それが、一番自分にしっくりとくる気がした。



しかし、ついこの間まで山菜を採っていた林道に花はない。

すでに時期が終わっている。

そこで、私は山の上を目指すことにした。

標高を上げることで時の流れに逆行し、

季節を戻していくしかない。



車を走らせていると、

道沿いに咲く白い集合花が目に飛び込んで来た。

オオカメノキだ。



ようやく見つけた花。

車を停め、林道に入ると、そこかしこに咲いている。

低木のもので、味のある枝を探す。

すると、あるわあるわ、超個性派だらけではないか。

稽古で使う花材では、どうやって面白い曲線美を作るか

枝を矯めながら苦心するが、

山の木は自由奔放に暴れている。

池坊で言うと、副にしたくなる湾曲した枝はたくさんある。

逆に真に置きたくなる、まっすぐな枝を見つける方が難しい。

面白すぎて夢中になる。



林道を2−3本歩くが、

次の林道に行けばもっといい枝があるのではないか、

と思ってしまう。

気づけば、今まで来たことのない標高まで上がり、

初めて入る林道を歩いていた。



そこで見つけたのが天然のエノキタケ。

秋に採って大層美味であったが、

春に見るのは初めてだ。

花のことを一旦頭の中から追いやり、

ビニール袋いっぱいにキノコを採る。



空気は冷たく、長袖でも一枚では肌寒いくらいだ。

それもそのはず、日当たりの悪い場所には

まだ雪が残っている。

雪解けでできたぬかるみには

咲いたばかりのミズバショウが顔を出している。

下界よりも一ヶ月半、いや、2ヶ月近く、

季節が遅い。






残雪の奥の斜面で、何かが光ったような気がした。

目をこらすと、それはカタクリだった。

小さな花だが、一つ見つけて目が慣れると、

次々と見えてくる。

これなら、何本か採取しても問題ないだろう。



この春、初めてカタクリを見たのは

日本海沿いの森で4月の頭だった。

まさか5月の末にまだ出逢えるとは思っていなかった。

さすがに花が咲ききって萎びかけているものばかりだ。

その中から、まだ花びらに力の残っているものを選ぶ。



カタクリは、芽を出してから花を咲かせるまでに

8年以上かかるという。

ようやく種を実らせる準備ができたところで

私がその運命を断つことは許されるのだろうか。

自然を愛している、命を大切にしている、

そう言い続けてきた自分生き方と矛盾しているのではないか。

しかし、その花をいけたい、という衝動は強い。



カタクリの根元を既に摘んだままに

思いが逡巡するのは、

こちらを睨みつける鹿に向かって銃口を向け

引き金に指をかけている瞬間と同じだ。



そして結果も、いつも同じだ。

カタクリの細い茎は

あっけないほど軽い力で千切れた。



私はなんと自己中心的な人間なのか。

そして、いけばなとは、なんと残酷な芸術なのか。



鹿を撃つと聞いて嫌悪感を露わにする人はいるが、

花束をもらって眉をひそめる人はいないだろう。

しかし、狩猟には大義名分がある。

他の命を食べない限り、自分の命は維持できない。

「別にベジタリアンでもいいじゃない」と言われても

「バナナと人間の遺伝子の7割が同じで、

そんな意見は植物に対する差別に過ぎない」

と反論することもできる。

一方、部屋に花が飾っていないからといって

死ぬ人はいない。

花自身、人に美しいと思ってもらうために

咲いている訳でもない。

池坊の花は、仏様へのお供えものとして発展して来た。

自分の為に花の命が犠牲になることについて

仏様自身は、一体どう考えているのだろうか。

私にとっていけばなは、

狩猟以上に倫理的な割り切りが難しい行為だ。



採ったカタクリをすぐに水に挿して林道を下る。

何度も眺めてはその美しさにため息をつく。



車に乗り、下の林道で

狙いをつけていたオオカメノキの枝と

数本のフキを採った。



いそいそと家に帰ると

すぐに花瓶と鋏を引っ張り出し、

剣山に花を挿し始める。



私の先生はとても優しく、

メールに気づけばすぐに返信を下さる。

いけながら写真を送るたびに、

的確なアドバイスが返ってくる。

結局、遅い時間まで、お手を煩わせることとなってしまった。



小さなカタクリを、株分けにして際立たせて、

新風体として構成していくという手法は

先生にご提示いただいたものだ。

本来、教室以外で指導を仰ぐのは

してはならないことだと思われ、

先生には感謝の念に堪えない。

結果、それなりに自分でも納得のいく作品が完成した。







翌週末、私は再び山に向かった。

締め切りにはまだ時間がある。

再挑戦すれば、もっといいものができるかもしれない。

そして驚いた。

カタクリはともかくとして、

オオカメノキも花の盛りを過ぎていた。

自然に「明日でいいか」は通用しない。

その時々で全力を出し切らない限り

文字通り、明日は無いのだ。



しかしこの日は、ホオノキが開花していた。

見事な大輪の花。

花瓶にいけたらどれだけの存在感を放つのか。

良さげな花を探すが

手が届くような位置には咲いていない。

まだ幹が細い木には蕾さえついていない。

10メートルを超える大木にならないと

ホオノキは花を咲かせないのだろうか。



諦めて帰途につくと、

たまたま急斜面に生えているホオノキを発見した。

斜面の上から登山用のストックをを伸ばし

必死に枝を手繰り寄せる。

それでも開花したものは手が届かなかったが、

やっとのことで大きな白い蕾を手に入れることができた。



今まではおひたしにする為に採っていた

ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)も

この日は花材として採取してみた。



最後に見つけたのは、前日の強風で

無残に折れた藤の枝。

こちらは良心の呵責なしに、先端を折り取った。



またしてもメールで先生のご指導を受けながらいける。

明かりを調整しながら写真も撮った。






出瓶候補の作品はふたつ。

一晩悩み、結局、最初のカタクリの方を選んだ。

 花のことばかり考えている、

とても内容の濃い時間であった。



山を歩き、花を狩り、

私は更に深く、いけばなの魅力にはまってしまった。

そして思考の無限のループにも。





果たして「美」とは

他の命を犠牲にすることを

正当化するだけの価値があるのだろうか。



いつの日か、

この問いに決着をつけられるだけの

花を生けてみたいものである。





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