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一人っ子の私だが、弟と呼べる男が一人だけいる。

Tと出会ったのは、もう15年前。

私が私の師匠、インディアンのキースに出会ったのと同じ年だ。

キースに会いに、一緒にカナダ・ユーコンまで行ったこともあれば、

海外支援の事務所長をしていたTに会うために

エチオピアの奥地まで出向いたこともある。

いつも優しい眼差しは、彼を取り巻くあらゆる人を安定させ、

私よりは随分若いTを、私はとても尊敬している。



去年の11月。

奥さんや兄弟夫妻と北海道に来たTを狩猟にお連れし、

色々なポイントを回ったが

残念ながらその時は猟果に恵まれなかった。

さすがに人数が多すぎたのかもしれない、と言ったところ、

今回はTだけが単身で北海道に来てくれた。

何としても獲らなくては、と気合いが入る。



Tの為に考えた作戦が、山中泊だ。

夜明け直後と日の出直前の

最も鹿が動く時間帯をフル活用するため、

山の中でテントを張り、一泊二日の行程を組むことにした。



前夜、久しぶりの再会に話が弾み、

睡眠時間はたったの二時間。

なんとか夜明けには猟場に到着した。



テントにマット、寝袋。

二日分の食料に鍋やヤカンなどの調理器具。

普段より荷物は格段に重い荷物を背負って歩き出す。



雪はほとんどない。

笹薮が立ち上がり、見通しが悪くなっている。

落ち葉を踏む音が響き、

鹿は我々の足音を聞いただけで

激しい警戒音を発し、逃げてしまい、

姿さえも見ることができない。



そうした中、

あまり落ち葉に覆われていない獣道を見つけた。

黒々とした湿った土をたくさんの蹄が踏んでいる。

それはこの道を、何頭もの鹿が、

少なくとも数時間前に歩いていることを意味している。

さらに私達の足音も音量が格段に減る。

早速その獣道に乗ってみることにした。



ゆっくりと慎重に進んでゆく。

急に、遠い稜線の上に目が反応した。

少しだけ開けた空き地に、鹿の群れがいたのだ。

全員が尻をこちらに向け、

頭を地面に下げ、夢中で草を食べている。

私には全く気づいていない。

静かに手招きしてTを呼んで座らせ、

鹿の群れを見せる。



距離計を覗くと250m。

ギリギリの射程距離に入るには、

あと100mは接近する必要がある。

自分が乗っている稜線をそのまま進むと

もう少し行った所で鹿から丸見えになってしまう。

一旦斜面を降り、

より近い稜線を登り直すことにした。



今度のルートは、またしても音が響く。

ヒヤヒヤしながら進む。

20分以上かけ、鹿が視界に入る場所に近づく。

こちらから鹿が見えるということは、

鹿からもこちらが見えるということだ。

不用意に見つかって逃げられないよう、

最後は這うようにして進む。



そして再び鹿を目視。

音を立てないように弾を込める。

射撃姿勢をとり、スコープを覗くと

先頭の鹿はこちらに気づいていた。

今にも逃げそうな気配だ。



これ以上動いたり、待ってしまうと走られる。

私は群れの後方に位置した

まだ草を食べ続けている個体に狙いを定めた。

息を一度深く吸い、半分吐いたところで止め、

ゆっくりと引き金を絞る。

しかし、鹿は倒れず、群れは全てあっという間に走り去った。



逃走ルートを確認する。

全速力で逃げる鹿は、一番走りやすい獣道を使う。

その道筋を覚えておけば、次の猟に繋がる。

しかし群れは

複雑に入り組んだ切り立った谷の間を走っている。

逃走ルートを一望できる開けた場所に先回りするのは

無理だということが分かった。



改めて距離を測定すると186m。

随分近づいたつもりだったが、まだ遠かったのだ。

再度斜面を降りると、

もう一段近くまでアプローチできる、別の稜線があった。

かなり下まで降りて、その稜線を登り始めたら、

完全に射程距離に入る。

今年に入って歩き始めたエリアだが、

やはり細かい地形が頭に入っていないと

鹿は獲れないのだと反省する。





この時点で11時。

明るいうちにテントを設営し、

野営の準備をすることにする。

重い荷物を下ろして身軽になれば、鹿も追いやすい。



鹿の足跡も濃い沢筋に、

乾いて開けた地面を見つけた。

水を汲むのに丁度良い流れの段差もある。






T愛用の二人用テントを立て、

焚き火スペースを作る。

頻繁に風の方向が変わる山の中では、

座る位置をこまめに変えないと煙くてたまらない。

ベンチのように座れる太い倒木を運び、

火を焚く場所を中心に、四角形の大きな枠を作る。






続いて乾いた薪を集める。

一見乾燥している枯れ木も

地面に横になっているものは湿っている。

一番いいのは立ったまま枯れている木だ。

着火剤となる白樺の樹皮、

焚き付けとなる乾いた細枝や枯れた笹の先端。

朝、火をおこし直すことを想定し、

二回分を用意した。

これで、日没まで心置きなく狩りができる準備が整った。



時間は13時。

鹿が活発に動く時間ではない。

うららかな春の日差しが降り注ぎ、風もない。

これが本当に猟期中の北海道なのか。

睡眠不足から猛烈な眠気が襲う。

四年の狩猟経験の中で初めて、

本格的に昼寝をすることにした。

マットをテントの外に敷き、陽光を浴びながら横たわる。

長靴も、二重にしている靴下も、全て脱いで素足になった。

Tもテントのそばで、同じく昼寝の準備をしている。

こんなに気持ち良い昼寝は初めてだ、と笑い合いながら

一瞬で眠りの淵に引きずり込まれた。





肌寒さに起きると、時間は15時過ぎ。

太陽はすでに傾き始めている。

たっぷり2時間、深い睡眠をとり気分は爽快。

すぐに服を着込み、靴を履き、歩き始める。



一旦、人里近くまで山を降りる。

今まで一度も歩いていないが

気になっているエリアがあった。

そこを遡り、テントサイトまで標高を上げていく作戦だ。

暗くなるにつれ、鹿は山奥から出てくる。

そうした鹿との出会いを狙ってみることにした。



久しぶりにGPSで地形図を確認しながら

未知のルートを行く。

すると、これが程良い起伏に富んだ良い稜線で、

鹿の足跡もふんだんにある。

しかしいかんせん足音が響き、

鹿は私達の姿を見る前に逃げ行ってしまう。

このルートをまだ雪がある時期に開拓していれば

もっと鹿が獲れていたかもしれない、と悔しく思った。



結局、日没までにテントを過ぎてさらに標高を上げたが

鹿を獲ることはできなかった。

意気消沈する私を、Tがいつもの笑顔で

「明日は獲れますよ」と励ましてくれる。






テントに戻ると、日はとっぷりと暮れているが、

すぐに大きな満月が上がってきて

あたりを明るく照らす。

相変わらず、風はない。

白樺の皮はいつも通り一発で着火し、

安定した火がおきる。



鹿肉を煮ようと思っていたコンソメでは

ソーセージを煮る羽目になったが、

温かい料理に会話も弾み、ウイスキーも進む。

満腹になり、酔いが回り、

パチパチと火がはぜる音に耳を澄ませる。

エゾフクロウが鳴きながら飛び、

キタキツネの叫び声が響く。

小川の水面に

月明かりがキラキラと反射している。

最高の友が隣にいる。

これ以上ない、という贅沢な時間を満喫し、

Tが先にテントに入った。

慣れない山歩きで疲れたのだろう。



私はまだ寝られずに、ウイスキーをちびちびやりながら

焚き火の番を続けた。

Tとはカナダでも野宿をした。

その時はキースも一緒だった。

山を歩きながらヘラジカを探したが出会えず、

でもライチョウを獲ることはできた。

今ここにキースがいたら、

どんなに楽しいだろうかと想像する。

ウイスキーがなくなり、仕方なくテントに入った。






なぜ目が覚めたのだろうか。

薄いナイロン地でできたテントの中がぼんやり明るい。

時計を見ると5時半。

ちょうど日の出の時間だ。

慌ててTに声をかける。



テントは昼間に撤収すれば良い。

服を着ると同時に歩きだす。

前日の午後とは逆の作戦で、

まず標高の高い場所に登り、

そこから獣道を下に降りて行くことにする。

ねぐらに戻ろうとする鹿との遭遇を想定したコース取りだ。



角を曲がる時、尾根を超える時、

視界が開けるたびに時間をかけ

入念に見回すが鹿はいない。

予定していたコースを下まで降りてしまい、

また新しいルートを開拓しようと方向を変える。



そしてついに、目の前に二頭の若い雄鹿が出た。

完全に射程距離内だ。

見た瞬間に、もらった、と思った。

出会い頭で、フリーズしている二頭。

弾を装填すると共に銃を構える。

地面に座って体を安定させる余裕はないが、

この距離なら立射でも全く問題ないはずだ。

心臓の鼓動が早くなる前に狙い込んでいる。

指も震えていない。

ゆっくりと引き金を引く。

轟音が鳴り響き、二頭が全力で走り去る。



なんと、外したのだ。

自信を持って撃った一発を外し愕然とするが

とにかく鹿を追い、坂を駆け上がる。

私が頂上に着いた頃には、

二頭は谷に降りて再び次の稜線を超えてゆくところだった。



一体あの距離の射撃をなぜ外したのか。

Tのために、何が何でも獲りたいのに。

この日はなぜか、本当に全てがうまくいかない。

またしてもTに慰められてしまう。



テントを撤収し、昼に一旦山を降りた。

昼食を食べ、他のポイントを車でチェックしながら、

最後にどのコースを歩くかを思案する。



歩き慣れている他のルートは

雪やその他、諸々のコンディションが悪い。

私は地形図を見ながら、

まだ歩いたことのない別ルートにチャレンジすることにした。

多分、普通に歩けば2時間くらいのコースだ。

あまり早い時間から歩き始めると

鹿を追い散らしてしまうことになりそうだし、

体力も持たない。

車の中で30分だけ仮眠した。



ラストアタック。

濃い笹薮を進む。

しばらくするとまたしても森の奥で

警戒音が鳴り響く。

鹿の姿は見えない。

この二日間で何度同じ状況に出会っただろう。



鹿の頭数は多い。

あちこちで数頭ずつが逃げて行く。

少なくとも30頭はいたのではないか。

しかし撃てる鹿はいない。



ここでも、ようやく落ち葉に覆われてない獣道を見つけた。

二日間、落ち葉をガサガサ踏みながら鹿に逃げられてきた。

最後、待ち伏せ作戦に出ることにした。

鹿が頻繁に使っている獣道を見渡せるポイントを探す。

座って音を立てず、じっと待つ。

その途端、周囲の音がよく聞こえる。

小鳥が枝先を移動する音さえ、クリアだ。

私たち二人の足音はどれだけのものだったのだろう。



待つこと15分。

薮の奥から、ガサリと音がした。

私は音を絶対に立てないよう、

スローモーションのようにゆっくりと銃を手にした。

音は、少しずつ、少しずつ近づいてくる。



焦ってはダメだ。

五感全てを鋭敏に研ぎ澄まし、その時を待つのだ。

それからどれだけ時間が経ったのだろうか。



薮から顔を出したのは、エゾタヌキだった。

そして日が沈んだ。

Tがわざわざ北海道まで来てくれのに

結局私は鹿を獲ることができなかったのだ。



深くため息をつき、Tを振り返る。



そこにはもう何年も見続けている

Tの笑顔があった。



それは、今までで一番優しい

最高の笑顔だった。

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