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一周忌




今日は、2022年10月16日。

三頭の親子熊が旅立った日、別の言い方をすれば、

無理矢理に私がこの世から消し去った日から、

一年が経ったのだ。





部屋に祭壇を作った。

宝物にしている、三頭分の毛皮と、

母熊の頭骨を飾る。



ヒグマと同様に、丁度一年近く前に採った

ヤマブドウで仕込んだワインをお供えする。

皮には元々、天然酵母がついているということで

皮ごと潰したブドウを絞り、果汁に少量の砂糖を加え、

一年ほど放置してみたが、見事にワインの味に仕上がっていた。



さらに、一週間前、本州の山で採ってきた小粒の天然栗を茹で、

一つ一つ丁寧に剥いて炊いた、栗ご飯を盛る。



花を飾り、ホワイトセージを焚く。

正座して、長い感謝の祈りを捧げる。

そして、この一年の出来事について、思いを巡らせた。










熊を撃つ。

あの日から、私の人生は変わった。

それだけのことで、人生が変わることなど信じられない、

と言われそうではあるが、本当に変わったのだ。



熊という字の由来を調べてみた。

今から四百年以上前の明国で、

医師で本草学者の李時珍が記した「本草綱目」によると、

発音はユウで「熊は雄なり」と記されているそうだ。

雄壮な獣だから、雄と同じ語源の言葉で呼ばれたと推察されるという。

また、能の部分は、元々は熊を描いた図形だったそうだ。

その字がやがて、粘り強い力や、任に耐えうる力、

つまり現在における能力の能の意味に転じて使われるようになった。

そこで、能の下に、火を意味する四つ点をつけて、

「火のように勢いがあり、強い力を持つ獣」を暗示させる図形として

熊の字が作られたという。



それだけの力を持つ熊を撃ち、肉をいただいたのだから、

私にもその力が少し宿されたとしても、不思議ではない。






元々、狩猟に関する講演や授業を行ってきたが、

熊を撃ってからは、当然、その時の話をするようになった。

ヒグマは、エゾシカと違って

人間を殺害する力を持つ動物として認識されており、

更には最近、市街地まで出てきて

大きなニュースになることも多いため、

聴衆の皆さんは身を乗り出すようにして

話に聞き入ってくださった。






私がブログに書いていた文章がきっかけで、

山と渓谷社が発行している雑誌「狩猟生活」に

記事を寄稿させていただくという、

貴重な機会もいただいた。



文章を書くのは元々好きで、

勝手気ままに自分のブログに日々の出来事を書き綴っていたが、

出版物に自分が書いた記事が載るのは初めてだった。

実績など何もないにも関わらず、

11ページに渡り、ヒグマ猟について書かせていただいた。



発売直前、出版社から著者宛に

刷り上がったばかりの冊子が送られてくる。

頬擦りしたいくらいに愛おしかった。

その号の特集は「クマと狩猟」であり、

他の記事も貪るように読んだ。



ツキノワグマを撃つ瞬間を捉えた

西野嘉憲さんの写真は圧巻だった。

青森県のマタギに伝わるという儀式にも感動した。

「逆さ皮を着せる」といい、

内臓を出す前に皮を全て剝ぎ、

前後を逆にして熊の体の上にかざす。

そして、この世とあの世を逆さにし、

あの世に行ってもきちんと成仏するように祈るのだという。

獲物に最大の敬意を払い、

再生を祈る気持ちは、

地域や時代が違えど、変わることはないのだ。



しばらくして、発売された雑誌が

実際に書店の棚に並んでいるのを見た。

表紙には自分の名前も載っている。

素直に、嬉しかった。

そして、襟を正した。

私の発する言葉や、書く文章が、

徐々に力を持ち始めていることを

感じ始めていたからだ。






全国に銃猟のハンターは

9万人弱ほどいるが(2017年統計)、

その中で、きちんと情報を発信している人は

ごくわずかだ。



銃とペン。

その両方を手にするようになった私は、

狩猟者の気持ちを表現する者として、

また野生動物の生き様を代弁する者として、

責任を全うしなくてはならない。



私が狩猟の中で仕留めてきた獲物たちは、

私にとっての真のヒーローだ。

彼らの美しさ、力強さ、

生きることを決して諦めない、という強い信念は

いつも私の心を激しく震わせる。

そしてそれらの物語は全て、

私が記録しない限り、

誰も知ることなく埋もれ去ってゆくだけだ。



足跡から読み解いた情景を、書き起こす。

爪痕に刻み付けられた想いを、語り継ぐ。

それが、これかの人生で、

自分に課せられた使命であることを実感している。






何年か山を歩いている内に、

鹿や熊の置き手紙は、

徐々に読むことができるようになってきたのではないかと

感じている。



いつの日か私は、

虫の、花の、樹のドラマを紐解きたい。

風が語る言葉を解読し、

雨粒ひとつひとつのメッセージを噛み締めたい。

対象がシンプルになればなるほど、

物語は壮大になっていく。



それは大いなる悦びであると同時に、

表現者として茨の道を歩くことをも意味している。

しかし私は、その道を歩きたいと思っている。






諦めなかったので、熊を獲ることができた。

そして、熊撃ちであり続けるためには

これからも諦めてはならない。



なにも熊など獲らなくても、

生きていくことはできる。

危険を避けるのは人間の常であるし、

例えば誰かが「自分は熊撃ちになる」などと言い出したら、

家族や友人は当然のように止めにかかるだろう。

しかし、命を危険に晒す必要がある行為ににこそ、自身の存在理由を見出す、

或いは、そうした行為にしかレゾンデトールを見出せない人間というのは、

ごく一部の割合で、常に存在し続ける。

一部の登山家や冒険家なども、そうした人種だと思われる。



熊撃ちとは、何か。

それは悪く言えば、頭のネジが外れている、

ある種の狂気を孕んだ人間。

敢えて良く言わせてもらえば、

自分の信念に、一番大事な命を懸けることができる人間である、

ということだ。





一年前のあの日。

私は迷いなく、引き金を引いた。



これからもそれは変わらず、

変わることがあってはならない。









参考文献:

・「動物の漢字語源辞典」加納喜光著

・「狩猟生活 VOL11」 山と渓谷社

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