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ナマケモノという名の賢者




ナマケモノ、という生きものがいる。



動きは極めてゆっくりだ。



天敵に見つかったら最後、逃げることはできない。

1日数グラムの葉を食べるだけの日々。

あまりにノロマなので、

全身にコケが生えはじめ、

哺乳類であるにもかかわらず、

徐々に緑色になってゆく。

一見、ナマケモノには何の生産性もない。






そんな動物の名を、自らに冠した思想家がいる。

“ナマケモノ教授”を名乗る辻信一先生だ。

“スローライフ”という生き方を日本に紹介し、

南米アンデスに伝わる、短くも深い

“ハチドリのひとしずく”のお話を世に広め、

“100万人のキャンドルナイト”の活動を通じて

脱原発・省エネを訴える。

専門は文化人類学で、長年大学で教鞭をとり、

明治学院大学の名誉教授でもある。



以前、仕事でご縁をいただき、

ご本人にお会いしたこともあるが、

気さくで気取らないお人柄で、

真摯でシンプルな生活を実践されており、

私も大ファンになってしまった。






今回のユーコン旅行。

何冊もの著書がある辻先生の最新作、

“ナマケモノ教授のムダのてつがく”を

伴侶として携え、

フライトや滞在の合間に

ゆっくりと読ませていただいた。



先生の著書は“弱さ”“雑”“あいだ”など、

印象的なひとつのワードを

徹底的に掘り下げるタイプのものが多い。



今回先生が選んだのは“ムダ”。

誰もがマイナスの要素として受け取る

無駄、無益、などの言葉の定義、

それらに関わる数々のことわざを引用し、

一体“ムダ”とは何なのかを冒頭から紐解いてゆく。



印象的な言葉がある。

「ふとムダの身になって考えると、

ずいぶん生きづらい世の中になっているに

ちがいありません。

そして、ムダにとって生きづらい世界とは、

はたしてぼくたちにとって生きやすい世界なのか、

そんなことも考えてしまうのです」



“ムダ”をひとつの人格のように慈しみ、

その立場になって物事を考えるという

温かみのある立ち位置こそが、辻先生の真骨頂だ。






時代性も敏感に反映されており、

終焉を迎えようとはしているものの、

長らく人間社会を混乱に陥れていた

コロナ禍に絡んだ話も多く展開される。



例えば、頻繁に叫ばれた

“エッセンシャルワーカー以外は出社を控える”

という言葉。

エッセンシャルとは、必要不可欠、という意味だ。

医療や、社会インフラなどの業務に関わる人間と、

そうでない人間のライン引きがなされたことで、

実は、自分の仕事が

生命や生活の根幹に関わった本質的なものではない、

ということを思い知らされた人も

多いのではないだろうか。

斯く言う私自身も、その一人である。



“不要不急の行動を避ける”という言葉もあった。

その観点で絞り込んでいくと、

仕事を含む、自分の行動のかなりな割合が、

不要不急であったことに気付く。

“不要不急ではない”ということと、

“ムダ”ということはニアリー・イコールにも思え、

自分の仕事が、人生が、存在が、

どれだけムダなものだったのかと、

愕然としてしまう。



しかし辻先生は

そうしたムダを削減せよ、

と説いている訳ではない。

その代わり、

一見ムダと思えるものは本当にムダなのか、

人生に於ける真のムダとは何なのか、

と考察を深めてゆく。






人生の目的は何かという問いには

何千通り、何万通りの答えが存在すると思うが、

例えばチベット高僧のダライ・ラマは、端的にそれを

「幸せになること」

と定義している。

ダライ・ラマの教えに基づけば、

「幸せになること」に向かう以外の行為は

ムダなものと言えよう。



ムダ、とは何か。

幸せ、とは何か。

その二つは、全く違って見えるが、

実は陰で手を取り合い、

同盟を結んでいる言葉のようにも見えてきてしまう。






効率を重視し、無駄を排除し続ける現代社会。

確かに便利にはなったように思える。

しかしその利便性は、本当に幸せな人生にとって

エッセンシャルなものなのだろうか。



地面や紙に数字を書き、

一つ一つを足したり引いたりしていた人類は、

そろばんなどの道具を発明し、

電子計算機、コンピュータと

その精度とスピードを上げてきた。

そして人間の能力を遥かに超えた最新のコンピュータでさえ、

デジタル(0か1かの2進法)の計算方法は既に古く、

“古典コンピュータ”と呼ばれているのが現状だ。

既にメーカー各社は、

次世代の“量子コンピュータ”の開発に鎬を削っている。



一体、人類は

何をそんなに急いで計算する必要があるのだろう。

そして、その計算結果は

人類に幸せをもたらしてくれるのだろうか。






“効率”という意味では、

私が勤しんでいる狩猟は

肉を入手する手段として、効率性とは程遠い。

むしろ真逆の行為だ。



スーパーに行ってお金を払いさえすれば、

誰であっても肉は入手できる。

それを自分で獲得しようとすると、

狩猟免許を取得し、銃や弾を買い、

長時間山を歩き回り、苦労して解体し、

数十キロの肉を背負って下山する必要がある。

多大な時間と労力を消費してしまう。



しかしその行為は、

無限の学びと喜びをもたらしてくれる。

狩猟をしている時、

私は間違いなく、幸せを噛み締めている。



そして、私が鹿を獲る上で

最も大切と思っているのは、

速度を上げることではなく、下げることだ。

森の中、保護色となっている鹿は木々に溶け込み、

なかなか見つけ出すことができない。

そんな彼らの存在に気付くのは、

鹿が動いた瞬間であることが多い。

じっとしていた鹿が歩きだした時。

こちらに気付いた鹿が、パッと頭を上げた時。

その瞬間に自分が動いていると、

風景全体がブレているため、

鹿の動きを見逃してしまうことになる。

自分が完全に静止し、森を凝視しているからこそ、

微かな動きを感知できるのだ。



アップダウンの続く山を

1時間歩き続ける体力より、

完全に静止して

同じ場所を1分間凝視し続ける集中力の方が大切で、

しかも、身に付けるのが難しいと感じている。



山を駆ける鹿は、確かに速い。

しかし野生動物は

そうした動的能力を駆使すると共に、

長時間にわたって身動きひとつしないという

静的能力も発達させることで、

厳しい自然を生き抜いてきた。

二極化する生存戦略の内、

動の道を捨て、静の道を極めしものが、ナマケモノ。

彼らは彼らで、究極の進化形であり、

只管打坐によって悟りの境地に達した

禅僧のようにも見えてくる。






“ムダ”を巡る思索の旅の最終章に、

辻先生が引用したのは“星の王子さま”からの一節だった。

自分とバラだけが暮らす星からやってきた王子は、

地球で何千本ものバラに出会うことで初めて、

自分がどれだけ、自分の星のバラを愛していたかに気付く。

王子の旅立ちに際し、キツネはこんな言葉を贈る。



「あんたが、あんたのバラの花を

とても大切に思っているのはね、

そのバラの花のために、

時間を無駄にしたからだよ」






誰もが希う、幸せや愛。

それは、効率やスピードの対極に存在する。



私たちは皆、疲れ過ぎた。



今は春。

足早に会社へと向かう通勤の歩みを

少し緩めようではないか。

そして、道端にしゃがみ

今まで見向きもしなかった花を愛でよう。

スマホから指を解放し、

ほころび始めた柔らかい花びらを撫で、

マスクを外して、

胸いっぱいに芳香を吸い込もう。



それによって数分、

1日の大半を過ごす職場への到着が遅くなることが

本当にそんな致命的なことなのだろうか。



あなたの足元の草花は、

きっとその答えを知っているはずだ。






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