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エメラルドの煌き




カフェインは苦手なくせにコーヒーは好きで、

名店と言われる店を飲み歩いてきた。

そんな私が、日本で一番美味い、と思う

コーヒーショップが、すすきのにある。



この日の同行者は、その店のバリスタ、T。

何度も店に通う内に仲良くなり、

コーヒーの淹れ方の手ほどきを受けたり、

彼が子供の頃から親しんでいる渓流釣りに

連れて行ってもらったり。

ルアー釣りの名手で、私が一匹も釣れなくても

彼はヒョイヒョイと何匹も釣り上げる。

釣りには何回か一緒に行っている彼が

今度は狩猟に同行したい、とのことで猟場にお連れした。



この日の目的は狩猟だけではない。

山の中でTの淹れるコーヒーを飲むことだ。

事前の打ち合わせで、

私の担当は焚き火起こし。

持参するのはヤカンとポーレックスのコーヒーミル、カップ。

Tの担当は焙煎とドリップ。

持参するのは生豆、焙煎器、ドリッパーにフィルター、

そして店で使っているユキワのポット。

注ぎ口は自分で金槌で叩いて微妙に細くし、

彼にとってのベストな形に成形してある。



ということで、選んだ猟場は清流の脇。

きちんと煮沸すればエキノコックスの心配もない。

鹿も飲んでいる水でコーヒーを淹れてもらおう。

最悪鹿が獲れなくても十分に楽しいはずだ、

などという考えが頭をよぎるが、

いかんいかん、と思い直す。





道中は雪が溶けていて、

猟場は前より歩きやすくなっているかと感じていたが

現場に到着すると、入ろうと思っていたルートは

想像していたより雪が深い。

ヘビーデューティーな四駆でも入れる状態ではなく、

車の轍は無い。

この日はまだハンターが入った形跡はなかった。

どうしようか一瞬考えるが、

雪は固く締まっていたため、

そのまま長靴で歩き出す。



しかし、すぐに自分の浅はかさを思い知る。

奥に行くと雪は深くなったり浅くなったり。

深い場所では膝下まで足が沈む。

もっと奥に行って雪が溜まったところになると

身動きが取れなくなる可能性があると思い、

私はゆっくり先に進み、Tには一度車に戻って

スノーシューを取ってきてもらうことにした。



実はこの猟場では、

二週間前に悔しい思いをしている。

平地が終わって急斜面となるトドマツの木立の中に

鹿の寝屋があることは分かっていて、

そこに奇襲をかける作戦だった。

しかし、その途中、

低い沢筋を移動している鹿の群れを見た。

距離が相当に遠く、藪も混んでいて

仕留めることはできなかった。

その後、寝屋に奇襲をかけるが

結局、逃げられてしまった。

逃げた鹿は、沢筋を走って行った。



その時に気づいたことがあった。

通常、危険を感じた鹿は

高い場所、高い場所へと逃げる。

しかしこのルートは、入り口はほぼ平らだ。

ここでは、鹿は逃げるとき、

一旦低い沢筋まで降りるのだ。

きっとどこかで川を渡って再び山を登るのか、

尾根を回り込んで目立たないところで

息を潜めるのだろう。

通常の移動時も、

ここでは低い場所を頻繁に使っているようだ。



そこでこの日は、朝一番で沢筋に降りてみた。

その方が鹿に出会う確率が高いのでは、と思ったのだ。

そこから上流に行くか、下流に行くか。

上流は笹薮が濃く、尾根筋ではないが鹿が安心するのか

寝屋がいくつもある。

下流は鹿が笹などを食べながら歩く比較的開けたコース。

少しだけ悩むが、前回鹿の群れが歩いていた

下流方向に向かってみることにした。



頻繁に足が雪に埋まり、

その度に大きな音が響く。

川がそばにあるので

音がかき消されていることを願いながら歩くが

鹿には出会わない。



ゆっくり忍んでいると、

遠くに、坂を下りてくるTの姿が見えた。

一刻も早くスノーシューを私に届けようとしており

ザクザクと足早に歩いている。

キャン!とTの向こう側から鹿の警戒音が響く。

鹿は既に上流の笹薮に入って休んでいたようだ。

前日に比べて気温が上がっているため、

鹿の動きもテンポが早いのかもしれない、と思う。

上流に行けばよかった、と少し後悔する。



Tと合流してスノーシューを受け取る。

雪に沈まないのはいいが、足音は更に大きくなってしまう。

上流の鹿には既に警戒されているので

割り切って下流に向かう。



しばらく歩くと、濃い鹿道に当たった。



何頭もの鹿が往復しているので

坂を上るもの、下るものが入り混じる。

どちらに行くか悩むが、

鹿が既に休み始めていることを考えると

前回奇襲をかけた寝屋のあたりを再び覗いてみたくなり、

斜面を登ることにする。



坂を登りきって寝屋に向かう途中。

Tが声をあげた。

彼の視線の先には逃げて行く雄鹿の姿。

寝屋に入る手前の林にいたようだ。

スノーシューの大きな足音、しかも二人分。

鹿に近づく随分手前で気付かれてしまったようだ。



二週間前のことを思い出す。

ここで逃げた鹿は、一旦沢筋に降りてから上流に向かった。

この近くで、沢筋を広く見渡せるポイントは一点だけだ。

普段は歩きやすい鹿道を回り込むが、

一刻も早くそこに到達したいため、

藪漕ぎをしてポジションにつく。



膝撃ちの態勢を固めた途端。

前回鹿が逃げたのと同じルートを走る鹿が

視界に入ってきた。

何かに怯えている雄。

先程の鹿に間違いない。



スコープに入れて動きを追う。

止まってくれ、と念ずる。



針葉樹林から、開けた場所に出てすぐ。

鹿は一瞬歩みを止めてあたりを見回した。

距離は100メートル弱。

まさに、この瞬間を待っていたのだ。



轟音と共に跳ね上がる鹿。

こだまが消えると静寂が訪れる。

周囲の笹は、そよとも動かない。

手応えは十分だ。



笹に足を取られながらも、Tと急坂を駆け下りる。

細い沢筋の中。

堂々とした体躯の雄が横たわっていた。

微動だにしない。

雪の上にはわずかな血痕。

弾がいい場所に入ったのか、

撃たれたその場で崩れ落ち、すぐに絶命したようだ。

苦しむ時間が短くて済んだことに安堵する。



二週間前、逃げられて悔しい思いはしたが、

逃走ルートを把握することができた。

そして今回、その経験を生かし、

鹿の行動を先読みして、狙い通りに仕留めることができた。

前回の失敗を取り戻し、

更にハンターとして、少し成長できたような気がした。






Tと固く握手。

改めて見ると、本当に大きい鹿だ。

そして重い。

二人掛かりでなんとか沢から引きずり上げる。

止め刺し用のハンティングナイフは事前に渡してある。

刺す位置を説明すると、

Tは何度か深呼吸を繰り返し、

意を決するとやおら刃を突き立てた。

第一発見者はT。

止め刺しもT。

この雄鹿は完全に彼の獲物であり、

それが私の喜びでもあった。






十二倍力のシステムを作り、巨大な鹿を吊り上げる。

Tにパラシュートコードを引いてもらい、

その尋常ではない重さを体感してもらう。





解体を手伝ってもらい、

Tに作業を進めてもらっている内に

焚き火を起こす。



火が起きたところで、ポジションチェンジ。

Tが焙煎器にマンデリンのG1の豆を入れて炙ると

すぐに何とも言えない良い香りが漂ってくる。

強火で焙煎しているため、すぐに一ハゼ、そして二ハゼ。

艶やかなシティーローストに仕上がった。






次は湯沸かし。

鹿が倒れていた10メートルほど上流、

小さな流れの落ち込みで清らかな水を汲み、

ヤカンを火にかける。



Tがポーレックスのミルで豆を挽き、

ポットに湯を入れ、準備完了。

ドリップが始まる。





お湯は多くもなく少なくもなく

ドリッパーの縁ギリギリまで注がれるが、

決してペーパーを濡らすことはない。

気持ち良さそうに膨らみ始める豆を見ながら

しばらくは蒸らしの時間だ。


そして再び湯を注ぎ始めると

豆はパン生地が発酵するように

のびのびと膨張を続ける。

徐々に湯量を増やしながらコーヒーを追い込むと

雑味が出る前にドリッパーを下ろす。

迷いなく的確に繰り返されるTの動きは

店を出て山奥に入ってもブレることはない。

何度見ても飽きることがない、

私の大好きな光景だ。



そして待望のコーヒータイム。

コーヒーのアロマを胸一杯に吸い込み

ゆっくりと味わう。

雑味がなく、あっさりとした喉越し。

いつ飲んでもうまいコーヒーだが

やはりこのシチュエーションで飲むのは、本当に格別だ。





続いて、獲ったばかりのヒレ肉を焼く。

今までは横長のブロック肉に何本かの竹串に刺して焼いていたが

今回は一口サイズに切り分け、焼き鳥のように仕立ててみた。

大きなブロック肉はワイルドで楽しいが、

全体に満遍なく火を入れるのが難しい。

小さく精肉すれば、いい感じに火が通ったものから

一口ずつ食べていけばいい。





肉に振る塩は、先週一緒に鹿を獲った

フレンチシェフKの特製だ。

いろいろなハーブを混ぜて空炒りしたこだわりの塩。

何にかけても旨い塩を持参していた。



肉汁滴る焼きたてを頬張ると

力強い雄鹿の滋味が口の中に広がる。

結局二人とも、コンビニで買ったパンに

手をつけることはなかった。






そして食後の締めは、再びコーヒー。

Tはミルの刃を調整し、少し細かく豆を挽いた。

趣のあるコクを楽しんだ。






ランチ後は精肉の残り作業を済ませて、

解体道具やコーヒーグッズも撤収する。

ここからは重労働が待っている。



両腿、両前脚、長く重いロース、ヒレの残り、

ネック、バラ一枚半、ハツにタン。

文字通りフルコースだ。

伸縮性の高い肉袋に詰めていく。

頭は頭骨標本にしたいとのことで、

それも持って帰ることにする。



沢のそばの急坂の上までは肉を分けて運び、

そこで背負子状のバックパックにパッキング。

Tのリュックに入ったのはロース・ヒレ・ハツにタン。

それ以外の肉を全て背負うと

重くて立ち上がることができず、

そばの木の幹にしがみついてゆっくりと体を起こす。



平らな場所まで上り坂は続く。

どこから上がるか迷うが、

鹿道を辿ることにする。

山の中ではいつも、鹿が一番歩きやすい道筋を教えてくれる。

一見遠回りだが、一番合理的に楽に上がれるルートだった。

しかし重い。

十歩も歩くと立ち止まって肩で息をする。

それにしても今年は下半身の筋トレを強化しておいて良かった。

大臀筋が痙攣し始めるも、平地に出ることができた。



そこからは肉をブルーシートに包み、

ソリの要領で腰で引っ張って歩く。

これがまた足腰に響く。

途中で肉を引っ張るのをTが交代してくれるが、

Tも苦しそうだ。






そこでソリからロープを二本出す形にして

それをお互いの腰にくくりつけて

二人で力を合わせて引く。

山に入ってから10時間後、

ようやく車に肉を詰め終わり帰途についた。






沢筋で鹿を仕留め、焚き火で肉を焼き、

Tのコーヒーを飲む。

全てが嘘のように思い通りに進んだ不思議な一日。

こんなこともあるのだなあ、と感慨に耽る。





そしてこの日、大きな発見があった。

Tが血抜きのために鹿をマッサージをしている時、

私は強い光を感じた。

暗闇でもよく見える鹿の目には、

感度を上げるため、網膜の裏に光を再利用する反射板がある。

夜、ライトを当てた猫の目が光るのと同じだ。

その目に、太陽の光が

ちょうどいい角度で差し込むと、

鹿の目は鮮烈な緑色に輝くのだ。



見たこともない、強いエメラルドグリーンの煌めき。

無機物の宝石が作り出す光と違い、

命の強さに満ちていた。

私たちはその美しさに息を飲み、言葉を失った。



指輪にもネックレスにもできない、

刹那の輝きを放つ宝石。





その光は、最高の一日の思い出と共に

私たちの心の中で

いつまでも輝き続けるだろう。



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