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けじめ




一発の銃弾で二頭の鹿を獲った翌日。

私は狩猟仲間のHと再び同じポイントに向かった。

出発は朝5時。

前夜に4箇所に肉を配った挙句に23時過ぎまで飲んでしまい、

少々グロッキー気味だったが、

鉛のような体をベッドから引き剥がし、

Hの運転する車に乗り込む。



二人、というのは有難いもので、

猟場へ向かう時間も一人の時より短く感じる。

前日の猟の話などをしている内に到着した。



車を降り、昨日最初に鹿を見た、

集落越しの遠い斜面を双眼鏡で覗く。

すると、今日もいた。

昨日より多い頭数の鹿が草を食べている。

これは期待できそうだ。





Hと一緒にこのポイントに入るのには

三つの理由があった。



一つは、Hに鹿を獲ってもらうこと。

私はもう獲らなくてもいいが、

Hは肉が欲しくてたまらない。

昨日鹿がいた場所を説明した上で

Hに先行してもらい、

一日このエリアを歩けば必ず鹿に当たる、

という確信があった。



二つめはこの日の私自身の目的。

前日に自分の弾に当たったかもしれない鹿を探すため、

険しい崖を降りたい。

そのサポートをしてもらおうと思ったからだ。

この日はロープやハーネスにアイゼン、

そしてそれらを引いて運ぶ橇も持参。

Hには追加のロープをお願いしていた。

更にこの日は天気が荒れる予報。

トレイルランナーにして山岳経験が豊富なHは

こんな時に頼れるパートナーだ。



最後は、去年十二月に一緒に猟に行った時の記憶。

わずかな血痕を、一時間半に渡り追跡し、

執念で半矢の鹿を仕留めたH。

その姿勢に私は感動し、学ぶところも多かった。

Hなら、今日の私の行程に

嫌な顔をせずに付き合ってくれるに違いない、

と思ったからだ。





駐車後、私が崖を降りる装備を整えている間に

いつも軽装なHはすぐに準備を終えた。

パドックに入った競走馬のように、

Hの歩き出したいオーラが全開となっている。

無線の感度を確認し、Hは先に出発してもらう。



歩きやすい作業道ではなく、

いきなり藪の中を直登し始めるH。

教えたポイントに直線的に進んでいく。

強靭な体力と、滾る猟欲の為せる技だ。

清々しい後ろ姿を、

Hらしいな、と笑いながら見送る。



私が歩き始める前にHから無線連絡が入った。

「早速、作業道に15頭くらい出てます。

 でも家が近すぎるのでやめときます。」

鹿欲しさあまりに無理をして、

銃の所持許可などを失ったらもう狩猟はできない。

君子危うきに近寄らず。

賢明な判断だ。

しかし、もう少し奥で群れに出会えていたら

あっさり獲れていたかもしれない、と思う。



Hは何度か鹿に出会いながら森の奥に入って行った。

私は崖の上に到着。

橇のパッキングを解き、

崖下りの準備を始めたところで失態に気づく。

アイゼンをどこかで落としてしまっていたのだ。

探しに戻るのが面倒で、

そのまま崖を下りたい気持ちにもなるが思い直す。

この崖に挑むのは、軽く、命懸けだ。

ゾンメルスキーを履き直し、

自分のシュプールを辿りながら引き返していく。

数十メートル手前の、

沢を渡るところに落ちているのを

無事見つけることができた。



かなり時間をロスしている内に

西向きの風の勢いが上がってきた。

私が降りようとしている崖はまさに西斜面。

このコンディションで、

垂直に近い部分もあるこの崖を

本当に下ることはできるのだろうか。

ましては、解体道具一式のバックパックと

銃も背負っており、

更に獲物にとどめを刺した暁には

肉も担いで登ってこなくてはならない。

徐々に暗澹たる気分になってくる。

すぐに楽な方に逃げようとする悪い癖だ。





“Eddie would go”

という言葉がある。

ハワイのレジェンドサーファー、

エディ・アイカウについての言葉、

エディなら行く、という意味だ。

一歩間違えば命を立たれる巨大なモンスターウェーブに

臆することなく果敢に挑み続けたエディ。

伝統的なカヌー、ホクレア号の乗組員として

先人の軌跡を辿りポリネシアからハワイへの航海時に船が転覆し、

救助を呼ぶために32キロ先の島へ

一人パドリングして向かう中で消息を絶った。

艱難辛苦を顧みず、

自分の行くべき道を歩むその姿は

多くの人々に力を与え続けてきた。



私にも、指標にしている人がいる。

それが、カナダ・ユーコン、インディアンの師匠、キースだ。

行ける、と思った時にはとことん行く。

ダメなら瞬時に諦める。

以前、一緒にカナディアンカヌーで川を下っている時、

かなりな流れに突っ込んで行くくせに、

ある一点で急に止まり、

「今夜はここで野宿だ」と言った。

翌朝、明るくなった川を見ると、

すぐ下はそこまでとは比べ物にならない激流だった。

野宿しながら高山でオオツノヒツジを追った時は、

足場の悪い急斜面をどんどん登って行った。

足元の小さな岩が崩れるたびに、数メートルは落ちる。

命の危険を感じた私は、諦めて降りようかとも思ったが

キースはどんどん登って行ってしまう。

しかも全身迷彩なので、どこにいるのか全く分からない。

泣きたい気分になりながら、腹を決めてキースを追った。

結局、この時はオオツノヒツジは獲れなかったが

胆力は随分鍛えられた。



さてこの崖、キースなら降りるかどうか。

答えは明白だ。

遠くにいても常に力を与えてくれる我が師。

吹雪が強まる中、腹を決めて再び準備に取り掛かる。





不意に、Hが森の中から一旦戻ってきた。

長いロープは車に置いてきてしまったという。

んー。まあ。仕方がない。

自分のロープだけで頑張ろう。

ゾンメルスキーと橇を崖の上に残し、

20メートルの登山ロープを木の幹に結び付ける。

Hが見守る中、最初の一歩を踏み出す。



斜面を見る限り、最難関は中腹だ。

垂直に近く、雪もあまりついていない。

最初のロープを使い切ったあたりで

その難所の上に到着する。




そこには、まとまった血痕があった。

前日の夕方、暗い中でうっすらと見えていたものだ。

大きな岩棚があり、裏に隠れていないかと回り込んでみたが

鹿の痕跡は皆無だ。

ということは、鹿がいるであろう場所はただ一つ。

崖の下だ。



Hに私の姿が見えるか無線で聞くと、

もう見えない、とのこと。

吹き荒れる西風の中、

私の場所から見える崖の状況を説明する。

「やめたほうがいいでしょうね。」

「でも諦めたくないんだよね。」

「分かりました。どうぞ、ご安全に。」

私が逆の立場だったら、そんな風に即答できただろうか。

引き止めずに送り出してくれたHに

無言の感謝をしつつ、

たまに無線で連絡を入れるようにお願いする。

万が一、滑落して意識を失うこともあり得る。

何度か呼びかけて返事がなかったら

助けに来てほしい旨を伝えた。



残されたロープは、30メートルのものが2本。

最悪なのが、崖の中腹でロープが尽きてしまうことだ。

1本目のロープエンドのあたりでは

運が良いことに少しだけ木々が生えていた。

ロープを節約するために、木を伝いながら

10メートルほど坂を下り、

一番下側の木に2本目のロープを結ぶ。

登山用ではなく、ジュート麻の安いロープだが、

ロープだけに全体重を預ける懸垂下降ではないので、

これでも強度は十分だろうと踏んでいた。



中腹は最も過酷だった。

斜面の中央はツルツルに凍った岩が露出していて

足場がない。

できるだけ斜めに進み、

斜面の脇の、少しでも雪が残っている部分に

アイゼンの爪を突き立てる。

途中でロープが絡まってしまう。

長いロープの絡まりを直すのには時間がかかる。

動きを止めると同時に、

強風が容赦無く体温を奪っていく。

山で命を落とした冒険家の話が頭をよぎるが

そのイメージを振り払う。

不安定な体勢で必死にロープを解く。

周囲のことを全て無視し、

手先だけに集中すれば恐怖心が少しは和らぐ。

一歩降りると、次の一歩のことだけを考える。

時間はかかるが、少しずつ進んではいる。

最後のロープを使い切ったあたりで、

垂直に近い難所を乗り切った。






その辺りでようやく風も少し収まってきた。

双眼鏡を取り出し、海岸線を見ていくと

大きな岩がゴロゴロしている波打ち際に

岩とは違う質感のものを見つけた。

鹿の背中だ。

骨盤のあたりの骨が

白く露出しているのも見える。



確かに、あの鹿だ。

動く気配はなく、完全に死んでいる。

前日のうちに回収できなかった申し訳なさと同時に

ようやく発見した強い喜びを感じる。






無線の電波はHに届くだろうか。

「こちらミキオ。崖をほぼ降りきり、

 海岸線に鹿を発見。」

しばらくして

「マジですかー、おめでとうございます!」

と返事が聞こえてきた。



そこから先は、ロープ無しで降りなくてはならない。

一歩一歩、膝上まで埋まりながら、

斜面をジグザグに降りていく。

獲物はもう見えていのに時間ばかりが経過していく。



ようやく波打ち際にたどり着く。

波をかぶる岩には雪がついていない。

雪に沈むことは無くなったが、

アイゼンをつけていると歩きにくくて仕方がない。

鹿はもうすぐそこだ。

雪の上にバックパックを置き、

アイゼンを外す。

身軽になって海へと近づく。



やっと、会えた。

ずぶ濡れの体が岩にはまり込んでいる。

なぜこんなところにいるのだろう。

崖を駆け下り、その勢いで自分で来たのか。

もっと陸寄りで倒れ、満潮の波にさらわれたのか。

開いたままの目がじっと私を見つめている。

鹿の皮の中で一番柔らかい

肛門まわりが鳥に突かれて大きく丸い穴となり、

腸や筋肉の一部がなくなっている。

崖を転がり落ちた時の怪我か

両後脚の骨が折れて飛び出ていて、

そこも鳥たちに食べられていた。




改めて、この鹿が自分の獲物だ、という

強い想いが込み上げる。

待たせて悪かった。

お前は、俺が喰う。





大きな波が押し寄せて海水を浴びる。

狩猟でこんな体験を体験をするのは初めてだ。

とにかく、岩の隙間から鹿を出さなくては。

ヌルヌルの海藻が岩を覆っていて

足場はすこぶる悪い。

滑って転ぶ。

ここで怪我などしたら生きては帰れない。

色々な方向に鹿を少しずつ引っ張っている内に

ようやく引っかかっていた前脚が解放された。

容赦なく降りかかる海水が目に染みる。

風が弱まっていたのが不幸中の幸いだ。

これ以上荒れていたら、波が高くて回収は不可能だったろう。



何度も海藻に足を取られて転びながら

バックパックのところまで鹿を運ぶ。

海から10メートルほどの距離を取ることができ、

海水をもろに浴びることはなくなった。

しかし、波打ち際がこちらに近づいてきている。

潮が満ちてきたのだ。



時間との勝負。

更に、垂直に近い崖の難所を

今度は登らなくてはならないことを考えると、

自分がバランスを崩すほどの肉を持ち帰るのは無理だ。

結局、大急ぎで背ロース2本だけを取り

バックパックに詰める。

鹿に手を合わせて感謝の言葉をかけ、足早に立ち去った。



何度も振り返りながら崖を登り始めると、

既にカラスやトンビが群がり始めていた。

私が鹿の元を離れるのを

そばでじっと待っていた鳥たち。

分厚い皮を切り裂いたことで、

肉が食べやすくなったのだ。

鹿は彼らの一部となり、大空を舞う。

そして潮が満ちれば青く深い海に旅立ち、

海の生きものたちの恵みとなるだろう。



登りはとにかく時間がかかり、体力を消耗する。

下るときには、少し滑りながら進んだようなポイントでは

いくら足を上げても滑るだけ。

アイゼンもほとんど役に立たない。

それでも数センチずつ、体は上がっていく。

下りの倍以上の時間と体力を使い、

再び崖の上に立った。



改めて海岸線を見下ろす。

この崖を降りたのだ。

そして、肉を回収したのだ。

猛烈な喜びを感じる。

GPSのデータを見ると、

標高差は115メートルだった。



風が再び強まり雪が降り始め、

視界が一気に悪化する。

潮の満ち干。

少しだけ収まった風と波。

全てのタイミングがマッチした結果、

獲物にたどり着くことができた。

決して、自分の力だけであろうはずがない。

何かが私を助けてくれたのだ。

何か、とてつもなく、大きなものが。





ロープを橇に積み、車へと戻る最中。

パーンという音が響いた。

Hも獲物を仕留めたのだ。

車には戻らずに橇を引いたまま

Hを手伝うために森に入る。

頭蓋骨のすぐ下の第一頚椎、

いわゆるダルマを射抜く、いいショットだった。

四肢や内臓はもちろん、ネックもタンも取れる。

二人とも大きな成果を得ることができた。





振り返ってみれば、反省する点も多い。

そもそも、前日に発砲したとき、

きちんと急所を射抜いて一発で沈ませていれば

鹿をあんなに苦しませることはなく、

肉も、もっときちんといただくことができた。

私の射撃の腕の未熟さが招いた結果だ。

また射撃場に通い、練習をしなくてはと

気持ちを新たにする。



しかし、半矢にしてしまった状況下において、

諦めることなく、自分で考え得る限りのベストは尽くした。



キースなら、きっと同じことをするはずだ。

そして次会ったときにこの話をしたら、

きっと喜んでくれるだろう。



それが私にとっての、最大の勲章だ。



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