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『△→○』 或いは狩猟における欲求五段階説の考察 〜前編〜




まずは、ありがちな誤解を解いておきたい。



「動物を殺すなんて残酷、何が楽しいのか分からない。」

ハンターが頻繁に浴びせられる言葉だ。



おっしゃる通り我々は、

熊だろうが鹿だろうが鴨だろうが、殺している。

かわいそうという思う気持ちは十分理解できるが、

分かっていないな、とも思う。

つまり、狩猟を知らない人は、

「食べたい」と「殺したい」を

ごっちゃにして考えがちなのだ。



私は大の動物好きだ。

子供の頃は、虫、小鳥、魚、色々な動物を飼ってきた。

小学四年の登校時、公園で段ボール箱に入った子犬を見つけた。

姿形はビクターの蓄音機に耳を傾ける犬のような感じ。

全身が真っ白なのに右目の周りから右耳にかけてだけが黒く、

まるで喧嘩に負けて片目がアザになっているような

ひょうきんな模様。

一瞬で惚れた。

当時、犬が欲しい、と両親にねだっていた私は

一旦家に飛んで帰り、この犬が飼いたい、と懇願した。

どう見ても捨て犬なのだが、

父は、飼い主が一時的に置いただけという可能性もゼロではないので

ミキオが下校時に、まだそこに子犬がいたら飼おう、と言った。

その日の授業は全て上の空で、子犬のことばかりを考えていた。

待ちに待った下校のチャイム。

全速力で公園に駆けつけると、子犬は段ボール箱に入ったまま、

不安そうな表情のまま震えていた。

私が拾い、名前をつけ、毎日散歩に連れて行った。

大学の時、その犬が死んでしまった時は

号泣しながら丸一日かけて庭に深い穴を掘り、埋めた。



社会人になってからは、動物を飼うのではなく、

大自然の中で自由に生きる野生動物を見たいと願うようになった。

クジラと泳ぎにドミニカ共和国へ、

ヒグマを見にアラスカへ、

ゴリラに会いにウガンダへ、

世界各国を訪ね歩いた。

仕事で得たお金と、プライベートの時間の多くを

動物に費やしてきた。

私が生きものを愛してやまない、と言って

文句を言う人はいないと思う。






それと同時に、私は肉を食べるのが大好きだ。

味、食感、食後に湧く力、

理由は枚挙にいとまがないが、

肉が好きな理由をことさら詳しく述べる必要もないだろう。

この文を読んで下さっている人たちも

大半が肉好きであろうと思っている。



動物が好き、且つ、肉が好き

という人は多いだろうし、

私自身も矛盾は感じていない。






少年時代に愛読したドリトル先生シリーズについて

分子生物学者の福岡伸一氏はこう書いている。



『ドリトル先生のフェアネスは、

 全ての生き物に対して平等に向けられます。

 ドリトル先生は、アヒルのダブダブを信頼し、

 ブタのガブガブを可愛がり

 家族として一緒に楽しく暮らしています。

 それでいてドリトル先生の好物は、

 スペアリブであり、ミートパイであり、ソーセージなのです。

 ここには偽善がありません。

 ドリトル先生のフェアネスはそういうものなのです。』

 (『ナチュラリスト 生命を愛でる人』より)



別に生きものを殺したい訳ではない。

動物の死はいつも悲しい。

しかし肉は食べたい。

そして肉を得るには殺さざるを得ない。

正直、仕留めた瞬間には大きな喜びを感じる。

その喜びより獲物の死に対する悲しみが勝るなら

私は狩猟をやめているのだろう。



「食べたい → 殺さざるを得ない → 達成感 → 嬉しい」

という思考回路は確かに存在する。



しかし、

「殺す → 嬉しい」

という短絡的な図式では、決してないのだ。



以上が、私自身に於ける、狩猟時の意識についてだ。






一方で、ハンターと言っても千差万別だ。

これまで色々なハンターと話してきた中で、

この人は単なるゲーム感覚で動物の命を奪っている、

と感じてしまったことも多々あるし、

鹿肉なんて食いたくない、と

堂々と言ってのけるハンターも

少なくないのが実情だ。

彼らは自分が殺めた命に対してどう思っているのか。

一体何のために狩猟をし、

何に喜びを見出しているのだろう。

考えれば考えるほど、気が滅入る。






人間性心理学の生みの親とも言われている

アブラハム・マズローの有名な理論に

「欲求五段階説」がある。

人間の欲求をピラミッド化したもので、

底辺から頂点に向かって



第一段階:生理的欲求

第二段階:安全の欲求

第三段階:社会的欲求

第四段階:承認欲求

第五段階:自己実現欲求



と定義している。






マズローに倣い、狩猟(エゾシカ銃猟)に於ける欲求を

段階的に考えてみる。



第一段階:撃ちたい

第二段階:当てたい

第三段階:獲りたい

第四段階:食べたい

第五段階:知りたい



としてみた。






第一段階:撃ちたい



子供の頃に割り箸で作るゴム鉄砲に始まり、

パチンコ、シューティングゲーム、と、

とにかく狩猟や戦争を模した娯楽は多い。

サバイバルゲーム、通称サバゲーの世界から

狩猟の世界に入ってくる人もいる。

ミリタリー好きの人もいて、

銃の種類や機能について異常に詳しかったりもする。

きっかけは人それぞれなので、良し悪しの問題ではない。

とにかく、単純に鉄砲を撃ってみたい、という欲求の段階を

底辺に置いてみる。






第二段階:当てたい


実際に銃を所有し、射撃練習をすると、

思ったほどには当たらない。

(私の射撃センスがないだけかもしれないが)

クレー射撃で満射を出すことなどは夢の夢。

ハーフライフルの静的射撃でも

5発撃って全てが10点に入ったことは未だにない。

スコープがずれているのでは、など、

すぐに銃のせいにする人ほど

射撃が下手で上達もしない。

射撃場の使用料や、

弾代(ハーフライフルのサボットスラッグ弾は1発600円)など、

かなりのお金もかかるため、

いい加減で済ませてしまうハンターも多い。






第三段階:獲りたい



集弾率が向上すれば鹿を獲れるかといえば

事はそう簡単にはいかない。

北海道に住んでいて、田舎を走ることがあれば

苦もなく目にすることができる鹿だが、

いざ獲ろうとすると、なかなか見つからない。

見つけたとしても、遠い、すぐ逃げる、など

撃てる鹿はそうはいない。

射撃が上手いだけでは獲物は手に入らず、

鹿の習性を知り、行動を読む必要がある。

実際に、鉄砲を所持して数年経っても

鹿を獲ったことがない、という話もよく聞く。






第四段階:食べたい



ここで言う「食べたい」は、

きちんと食べる、という意味である。

最初の一頭は、どんなで形であれとにかく仕留め、

無理矢理に解体して運べるだけの肉を持ち帰って食べる。

まずはそれだけで、大きな満足感を感じるはずだ。



徐々に頭数を重ねていくと、

弾の当たり所、解体の美しさ、などが気になってくる。

食卓に上がる最終形から逆算して物事を考えるようになるのだ。

肉に毛や血をつけないように解体するにはどうすればいいのか。

血抜きを良くするためには止め刺しのナイフをどう入れるのか。

弾が入った付近はどうしても肉がダメージを受ける。

一般的にネックショットは

可食部を多く取れるためベストと言われるが

ネックはネックで旨い。

その時に食べたい部位により狙う場所も変わる。

若く柔らかいメスが食べたいのか、強く大きなオスが食べたいのか。

一番食べたいと思える鹿に出会うまで、

その前の鹿を敢えて見逃すという、

一頭も獲ったことがない頃には思いつきもしなかった

贅沢な選択肢も生まれる。



射撃や解体だけではない。

肉をどうやって運び下ろすのか。

運搬にも色々な方法とノウハウがある。

この辺りまで到達してしまった人は、

もう元には戻れないだろう。






第五段階:知りたい



鹿であれば普通に獲れる、という段階に入ってくると、

獲れなかったとしても、そこまで悔しくもない。

その日でなくても、すぐに獲れるチャンスが巡ってくることを

体で理解しているからだろう。

鹿の動きや天候など、自分の力量だけでは

コントロールできない部分も分かってきて、

そうしたことが原因で獲れなかったのであれば

落ち込む必要もない。



そうなると、一番面白みを感じるのは、

どれだけ自分の読みが当たるか、に変わってくる。

鹿が何を考え、どう行動するのか。

それを知ることにこそ、意味合いを見出すのだ。






先日、初めて歩いてみた稜線がある。

天候、時間帯、風向き、地形図、などから判断し、

ピークから少し下った

東向きに斜度が少し緩くなったポイントに狙いを定めた。

そこに鹿がいると仮定し、できるだけ音を立てずに

一番理想的な角度から慎重にアプローチした。



ゆっくりと頭を上げ、くまなく見回す。

耳をすませて気配を探る。

しかし鹿の姿は見当たらない。

がっかりだ。

銃とリュックを下ろす。

休憩がてら、昼食用に買ってきたパンを食べることにする。

袋を開ける瞬間、ベリッという音が響く。

すると笹藪の中から面食らった顔をした鹿が立ち上がり、

飛ぶように逃げていった。



すぐにそのポイントをチェックする。

地面の雪が楕円形に溶けている。

鹿は笹藪の中に横たわって寝ていたのだ。

瞬時の出来事で鉄砲を構える暇もなかったが、

まさに私が思い描いていた場所に、

ピンポイントで鹿は居た。

それだけで十分だった。



その日、肉は得られなかったが、

とても晴れやかな気持ちで山を降りることができた。

鹿を捕獲する以上の

充実感と達成感を感じてさえいた。






そして次に山に入った時、

きちんとそこで鹿を獲ったのだった。





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