2020年12月20日
若き青年が、最初の一歩を踏み出した。
大学四年生のM。
自然が好きで野鳥の鳴き声を研究しており、
バイオリンの名手でもある。
星野道夫が好きなもの同士であり、
もともと話が合う彼が
狩猟の現場を体験してみたいという。
二日連続の狩猟体験アテンドとなる為、
自分の体力的なことを考え、我が家に前泊してもらう。
積み重なっている大きな雄鹿の頭骨や
私のもう一つの趣味である蝶の標本などを
しげしげと見ては感心しているM。
翌朝、真っ暗な内に家を出て高速に乗る。
Mは夜明け前の空の色に感動することしきり。
なんだかこちらまで楽しい気分になってくる。
選んだルートは、私が去年の猟で最後に歩いた林道だ。
忘れもしない2019年3月14日。
一人で険しい稜線を忍んで歩き、
二頭の鹿を仕留めた。
四本のモモとロース・ヒレを担いで持ち帰ろうとする最中に
右ふくらはぎに酷い肉離れを起こした。
肉は全て捨て、銃を杖のようにつきながら
左足一本を頼りに4キロを歩いて車まで戻った。
たまたま近くにいた狩猟仲間が
途中までソリを引いて応援に来てくれ
家まで車も運転してくれたから助かったものの、
その後一月以上は車椅子と松葉杖の生活。
一歩間違えば、と思うと背筋が寒くなる。
この出来事については、いつかまた詳しく記したい。
気持ちを新たに、いわくつきの林道に入る。
少し歩くとすぐに禁猟地区になり、
可猟区に入るまで30分以上かかるのが難点だが、
新鮮な足跡がいくつも見られ、心が踊る。
気になるのは、既に二人分の足跡がついていること。
先行してハンターが入っているのだ。
林道沿いに鹿が出ていれば撃ちやすいが
最初に人間に出くわした時点で逃げてしまう。
また、先に入ったハンターは我々の存在を分かっていないので
誤射されないように細心の注意を払う必要もある。
しかし、そのハンデを逆手に取ることにする。
先行しているハンターに驚いた鹿がどう動くか。
鹿は大概、高い場所に逃げる。
見晴らしの良い場所から
広範囲を見渡すことで安心するのだ。
早めに高いポジションを取りたい。
去年登った稜線よりもずっと手前で
林道から外れ、険しい坂を登り始める。
懸命についてくるM。
前を歩かない、服をカサカサいわせない、と
言われたことをできるだけ守ろうとしてくれている。
稜線のピークまで登った時、
遠くで発砲音がした。
こちらはまだ一頭も鹿を見ていない。
先を越されたか、という悔しさが胸をよぎるが
これはこれで狙い通りと、期待も高まる。
いつ鹿が走り上がってきてもおかしくない。
気配を消し、峰々を眺める。
しばらく動かずにいたが山は静けさを保ったままだ。
諦めて歩き出す。
しかし後で聞いたが、
この時、Mは谷底を走り去る鹿を見たという。
少し距離を置いて歩いていた為、
私からは見えない角度の鹿だったのか、
或いは私が見逃しただけなのか。
単に、私の目が節穴だということもあるが、
それでも猟期四年目のハンターより先に鹿を見つけるとは
大したものだ。
大学の研究でも野鳥を追って山に入っているので
動物を見つける目が鍛えられているのかもしれない。
一旦林道に降りて、更に奥を目指す。
先行している二人組の足跡が林道を外れ
稜線を上がっていた。
去年、私が肉離れを起こしたのと同じラインだ。
あの時はたくさんの鹿を見た。
なかなかこの山をよく知っている
ハンター達なのかもしれない。
この先にはあまり美味しい稜線はないのだが、
今度は我々が先行する番だと先を急ぐ。
しかし、鹿の足跡が雪に埋もれ始めた。
古いのだ。
あまり奥に行っても疲れるだけで
いい事はないかもしれないと思いながらも
諦めきれずに歩く。
川沿いの林に入っていく足跡があった。
林に入るといく筋もの足跡がある。
程なく、赤いものが目に飛び込んできた。
鹿の血だ。
ハンターに撃たれ、逃げ続けているのか。
だとしたら早めにとどめを刺さないと可哀想だ。
血痕を追っていくと
雪に埋もれかけた死体を見つけた。
ハンターは鹿に追いつき、射止めたのだ。
しかし残念ながら、
モラルの欠如したハンターであることは明白だった。
大きなオスジカ。
角は根元から切り取られ、
皮は背中の少しの部分しか剥がれていない。
肉は背ロースだけ、あとは記念に角を持ち帰っただけ。
これでは鹿は浮かばれない。
あまりに無残、可哀想だ。
命をいただいたからには、
できる限り有効活用するのが当たり前だ。
それができない人間に
狩猟をやる資格はない。
更に鹿の傍らには、ビニールまで捨てられている。
Mに拾ってもらい、持ち帰る。
手を合わせ、鹿と山に、
ハンターの一員として謝罪する。
林道に戻り奥に進むと、
複数の新しい足跡に当たった。
稜線と川をつなぐ足跡が林道を横切っている。
稜線に登ろうとする足跡もあれば
川に下ろうとする足跡もある。
どちらも新しく見える。
さて、鹿は今どこにいるのか。
時間は9時過ぎ。
日は高く上っている。
私は稜線の上と読んだ。
夜の間に低地で草を食べ、
腹一杯になったところで水を飲み、
明るくなった今は人間を嫌がり
稜線に戻って寝て休んでいるのでは、と考えたのだ。
よくよく地形図を見ると、
ここもいつくかの稜線をトラバースしながら
標高の高いラインを歩けそうだ。
再び尾根を登り始める。
オスの足跡、親子の足跡が入り混じっている。
足跡はどんどん新鮮になっている。
追いつき始めているのだ。
獣道を辿るのは歩きやすいのだが
鹿が隠れていそうな筋を前に、
敢えて鹿道を外れ少し上に回り込む。
そっと覗き、谷筋と斜面を舐めるように見回す。
後ろのMが小声で
「いました」と言った。
指差す先の稜線に雌鹿が立っていた。
下を重点的に見ていたが、
鹿は上に出ていたのだ。
弾を込めるが撃てない、と思う。
バックストップと呼ばれる、
鹿を貫通したり、外した時に弾を受け止める
背後の斜面がない。
鹿は青空をくり抜くようにくっきりと見えている。
別のハンターがちょうどその延長線上にいた場合、
大惨事となる。
こんな山奥ではその可能性は非常に低いが、
バックストップ無しには撃たないというのは
狩猟における鉄則だ。
鹿は踵を返して姿を消した。
もう鹿にはバレているので、
鹿がいた場所まで走る。
急すぎてなかなか登れず、足が滑る。
少し離れた所で止まっていないかと
期待を抱いていたがいなかった。
次の出会いを求めて更に登る。
スパイク付きの長靴の私でもきつい。
トレッキングシューズのMにとっては更に厳しいはずだ。
これ以上はアイゼンが無いと無理、
というところまで上がるが、それでも鹿の姿はない。
時間は12時前。
7時半から歩き始め、日没は16時。
このあたりで折り返しておかないと
真っ暗な道を帰る羽目になる。
猟が初めてというMを連れて
あまり危険な事はしたくない。
下山を開始した。
その途中、またしてもMが鹿を見つけたという。
「オスです。あそこ歩いてます!」
私の目がその影を捉える前に、鹿は姿を消した。
慌てて斜面を滑り降りるが、残されていたのは
飛ぶようにして逃げた足跡だけだった。
これで三回連続、Mに先を越された。
ハンターの名折れである。
情けなく、悔しくてたまらないが、
そこは年の功で色に出さないよう我慢する。
実際Mからどう見えていたかは分からない。
しかしMの鹿を見つけるセンスは素晴らしい。
いいハンターになるだろうな、と内心思った。
林道に降りる直前、少し見晴らしの良いポイントがあった。
鹿が下に出て来ることを祈りながら
そこで昼食をとることにする。
バックパックを下ろす。
Mがガサガサとコンビニ袋を取り出した瞬間、
我々のいる稜線の真下から二組の親子が走り出た。
口笛を吹いてMに合図するが気づかない。
四頭はあっという間に走り去った。
下から登ってこようとした時に我々に気づいたのか、
或いは、気づかれずにやり過ごそうと
息を潜めていたものの
緊張感が限界を超えたのか。
我々が歩いているラインは間違っていない。
鹿にはヒットしている。
しかしタイミングが合わない。
今日はどうにも、ちぐはぐだ。
落胆しながら私も昼食をバックパックから取り出す。
冬山で食べるおにぎりは不味い。
手が凍えるほど冷たく、米は固くボロボロになっている。
Mはパンを食べている。
なるほど、パンの方が
寒さの影響は受けにくいだろうなと思ったが、
中のマーガリンが凍ってシャリシャリしているという。
笑いながらそれぞれの昼食を食べる。
二つ目のおにぎりを出そうと
バックパックを覗き込むと
Mが「また出ました」と言う。
振り向くと、別の群れがぞろぞろと
林道の向こうの森を歩いていた。
慌てて鉄砲を構えるが、
どうにも木が混んでいて狙いが定まらない。
先頭のメスが我々に気づき、
十頭近い群れが、地響きを立てながら
林道を走り去るのを見送る。
悔しさを通り過ぎて、笑えてきた。
こんな日もある。
と言うより、思い起こせばこんな日ばかりだった。
たまたま最近、少し運が向いてきて連続して鹿を獲り、
私が調子に乗っていただけなのだ。
おにぎりを食べ終わり、林道に降りる。
人間を意識している鹿は、夜に動く。
しかし、発砲していいのは日の出から日の入りまでと
法律で定められている。
この後、一番鹿が動き、かつ発砲していいのは
夕暮れ直前だ。
一番足跡が多かったあたりを
夕暮れ直前に通過し、
林道の際まで降りてきている鹿との遭遇を狙いたい。
少し時間調整をしたいのと、
このまま帰るのが、
なんだかMに申し訳ない気持ちもあり、
焚き火をしてお茶を沸かして飲むことにした。
鹿を追いながら山を歩くのは
特別な体験だろうが、
何かちょっと楽しいことも味あわせてあげたい。
さっき鹿の群れが歩いてきた林を抜け
水辺に出た所に倒木があった。
ここなら二人並んで腰掛けることができる。
倒木の前に火床を作り、
今日はダケカンバの樹皮を敷き、
焚き付けの小枝を重ねる。
メタルマッチで一発着火が決まると
気持ちいいものだ。
川の水は澄んでいて、
鍋にそっと掬えば不純物は何も入っていない。
エキノコックスの心配はあるが
沸騰させれば問題ない。
火が大きく育ってきたので、
放射型に組んでいた薪を平行にし、
いわゆるロングファイヤーのスタイルに
作り変える。
両脇の太い薪を五徳代わりにして鍋を置く。
鍋の底にプツプツと
小さな泡ができるのは早かったが、
なかなか完全には沸騰しない。
火吹き棒で火力を上げる。
薪が燃え尽きそうになると
鍋を外して薪を足しまた吹く。
ようやくゴボゴボと大きな泡が立ってきた。
紅茶の茶葉を投入しようと
脇に置いていたジップロックに手を伸ばした時。
林の中で何かが動いた。
鹿の群れが向こうから近づいてきたのだ。
反射的に銃を鷲掴みにして、小さな土手の上に飛び上がる。
逃げ出す群れ。
最後のオスが走り始めたと同時に引き金を引く。
鹿が跳ね上がり、よろめきながら川に落ちた。
振り向いてMを見ると、
事前に言っておいた通りに両耳を手で覆っていた。
足跡の濃い林のそばで焚き火をしたので
あわよくば、とは思っていたが、
あれだけ歩き回っても獲れなかった鹿が
こんな形で獲れるとは思わなかった。
とどめを刺すためのナイフはMに渡してある。
まだ少し頭を振っている雄鹿。
Mが角で怪我をしてはいけないと
首筋にもう一発撃ち込む。
一頭の鹿に二発の弾を撃ち込むのは、本当に久しぶりだ。
四肢が一気に伸びて硬直し、全身が痙攣している。
Mを呼び、ナイフを入れてもらう。
今までの誰もがそうだったように
動脈は切れていない。
そこからは私が引き継ぐ。
インディアンの師匠・キースから教わった通り、
気道を枝に刺し
エゾシカの再生を祈る。
Mには焚き火の処理をお願いし
私は鹿を木に吊るして解体を進める。
皮剥ぎからはMも参加。
ぎこちなく、ナイフを当てる角度も間違っていて
皮に穴を開けてしまうが、必死に頑張っている。
前脚を外し、骨盤と背骨を切り外す。
バラ肉を取るため、肋骨を切るノコギリを探すが見当たらない。
さっき薪を切る時にMが使っていたノコギリだ。
どこに置いたか探しに行ってもらう。
その間に解体は進む。
ノコギリがないともうやることがない、
というところまで来て
私も一緒にノコギリを探す。
すると、私の小さな小分け袋に入っていた。
慌てて解体場所にバックパックを持って来た時
無意識にノコギリをしまっていたようだ。
大変申し訳ないことをした。
解体作業中、Mは多くの時間を
ノコギリを探すことに費やしてしまったのだった。
肉を運ぶことを想定し、
Mは自分の荷物のバッグを
私が去年使っていた背負子に括り付けていた。
今年の私のバックパックも背負子構造になるため、
肉は二人で手分けして背負うことができた。
いつも一人で背負っているので本当に気が楽だ。
結局、紅茶を飲むことはできなかったが、
山の恵みを授かることができた。
日没15分前。
車まで6kmの道のりを、
ヘッドランプを首にかけ
いつでも点灯できるようにして歩き始めた。
暗くなると、
どこに隠れていたのかバラバラと出てくる鹿。
この日は全部で30頭以上見ているのではないか。
もう撃つ気はないので
ゆっくりとシルエットの美しさを愛でる。
充実した一日に、Mも私も饒舌となる。
林道の最後はずっと登り坂が続くが
アドレナリンが出ているのか
二人とも足取りは軽い。
夜の帳が降り、
空は夜明け前と同じ色になる。
えもいわれぬ色に、思わずため息が出る。
月が出ると雪道は白く輝き、
ヘッドライトは一度もつけることはなかった。
車に戻り、固い握手。
「今日で、少したくましくなった気がします」とM。
私もそう思う。
そして、
「絶対にハンターになります!」と目を輝かせる。
私にとっては、最高に嬉しい言葉だ。
たった一日だが、苦楽を共にする中で
狩猟の魅力や、命と向き合うことの喜びを
感じてくれたようだ。
私がライフワークの一つとしたい「猟育」。
確かな手応えを感じた。
私が思い描くハンターとは、生きるとは何か、を伝える者。
それぞれが自分の体験や思想を物語り、
様々な人生体験を投影している。
これまで追い求めてきた真理を、
狩猟というフィルターを通して表現しているのだ。
M君。
今日は、君のハンターとしての物語が始まった日です。
記念すべき日の出来事を詳細に記録した、この
(多分我々以外はげんなりする程の)長文は、
新しい夢に向かって歩き始めた君への
ささやかな贈り物です。
狩猟免許を遅くに取った私に比べ、
君が持つページ数は格段に多い。
命の強さと尊さを、この世界の美しさを、
存分に書き綴り、伝えていって下さい。
その道のりに、幸多からんことを。
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