2025年1月2日
2024年の大晦日。
午前4時に起き、身支度をした。
棚の上に置いてある、母の喉仏の骨に話しかける。
「母さんが旅立って、今日で丁度一年だね。
お陰様で、今年も無事に過ごすことができました。
これからもずっと見守っていて下さい」
2023年12月31日に母は息を引き取った。
大晦日は、一年の締めくくりであると同時に、
母の命日となったのだ。
気温は-5℃ほどか。
それほどに寒くはない。
すぐに車に乗り込み、出発する。
新千歳空港に着いた頃は、まだ真っ暗だった。
わざわざ大晦日に、
それも一泊二日で東京に向かったのは、
どうしても聞きたい演奏会があったからだ。
「ベートーヴェン全交響曲連続演奏会」
上野の東京文化会館で大晦日に開催される
毎年恒例のイベントで、22回目を迎える。
コンサートが始まるのは13時。
楽聖が遺してくれた9つのシンフォニーの全てを、
休憩を挟みながら23時半までかけて
1日で聴かせてくれる壮大な企画だ。
2024年は、第九にとって節目の年。
ちょうど200年前の、1824年に初演が行われたのだ。
5月7日、オーストリア・ウィーンの劇場でのことだった。
聴覚がほとんど失われた状態で、
ベートーヴェンは第九のステージに立った。
演奏が終わり、拍手が聞こえていないベートーヴェンを
アルト歌手が手を取って振り向かせて
観客の熱狂ぶりに気付かせたというエピソードが残されている。
音楽家でありながら聴力を失ったベートーヴェン。
不屈の精神で立ち上がり大曲を仕上げた末、
感動の嵐に呑まれる観客を見た時、
楽聖の心には、どんな想いが去来していたのだろうか。
それから二つの世紀が過ぎ去り、
この日、指揮台に立ったのは小林研一郎。
御年84歳。
世界各国の名だたるオーケストラと共演を重ね、
情熱的にタクトを振る姿から「炎のマエストロ」と呼ばれる。
同氏の人気は高い。
東京文化会館大ホールのフルキャパシティ2303人、
5階席までの全てが完売し、
更に追加の補助席が並べられていた。
小林研一郎は小学4年生の時、
ラジオから流れてきたベートーヴェンの第九を聴いた瞬間に
雷に打たれたような衝撃を受け、
音楽の道を志すことを決めた。
そしてすぐに、父親の持っていた楽譜を見ながら
独学で楽典の勉強を始めたそうだ。
実は、僕自身もマエストロと同じ年齢の頃に
ベートーヴェンの音楽に触れている。
僕の父親はベートーヴェンを敬愛していて
交響曲第三番「英雄」や第六番「田園」のカセットを
小学生の僕に繰り返し聞かせていた。
挙句の果てには、
第九のアマチュア合唱団に一家で参加することを
一人で決めてしまった。
父やバス、母はアルト、
声変わり前の僕はボーイソプラノとして
ソプラノパートに強制参加させられた。
それが確か、小学校3年・4年のことだ。
第九が嫌いな訳ではないが、
田舎の小学生がドイツ語の合唱団に参加するなど、
同級生から見れば、
格好のからかいの的だった。
しかし、父の躾は体罰を含む厳しいもので、
僕は、口答えはおろか
自分の意見を言うこともなかなかできず、
当然、合唱に参加したくない、などとは
言えるはずもなかった。
炎のマエストロと同じ年齢で、
彼以上に深くベートーヴェンとの関わりを持った僕だが
残念ながら自分に音楽の才能は皆無であることは
子供ながらに自覚していた。
ちなみに、僕が第九を歌った時のオーケストラは
今は存在しない新星日本交響楽団で、
指揮は同オーケストラの顧問を務めていた山田一雄。
小林研一郎が、大学時代に指揮を習ったその人である。
何か不思議なご縁を感じてしまう。
午後1時。
主催者の挨拶に続き、オーケストラが入場し、
一拍おいてマエストロが舞台下手から姿を表した。
84歳の痩せ細った体はとても小さく、
男性楽団員の誰よりも軽いと思われた。
右手を胸に当て、ゆっくり深々とお辞儀をする様子は
謙虚さに満ち溢れている。
オーケストラも観客も、
誰もがその姿を尊敬の眼差しで見つめている。
マエストロは指揮台に片足を乗せて慎重に体勢を整え、
少しよろめきながら台上に登った。
息を整え、会場が静まる。
第一番が始まった。
僕は以前、もう20年ほど前だろうか、
同氏のステージを見たことがある。
チャイコフスキー交響曲第五番を
気持ち良さそうに指揮する姿が印象的だった。
80代も半ばに差し掛かり、
マエストロの身のこなしは、以前とは明らかに異なっている。
しかし魂の中に静かに燃え盛る炎は健在だった。
氏の全身は大きく揺れ、
柔軟な下半身が拍動を受け止める。
時には深く屈むように姿勢を低くし、
オーケストラの団員から熱い音を掻き出す。
どちらかの足が前に出て、
膝は常に曲げられて上下している。
それは格闘家がとる
ファイティングポーズと酷似していた。
70人以上の団員が客席を向いて演奏する中、
ただひとり、客に背を向けて楽団と対峙するマエストロは
ある意味70対1の戦いに挑んでいると言えるかもしれない。
無論、相手を打ち負かす為のものではない。
切磋琢磨により、
お互いに自分の力だけでは到達できない高みを目指す
真剣勝負だ。
第一番はベートーヴェンの交響曲の中でも最も短く
演奏は30分足らずで終わった。
指揮台を降り、再び胸に手を当ててお辞儀をしたマエストロは
そのまま引っ込むかと思いきや、
コンサートマスターと握手し、
弦楽器の各パートを立たせ、
続いてステージ後方に足を運ぶと
今度は管楽器や打楽器奏者までを
それぞれ順番に立たせた。
通常、ここまで丁寧に各パートを讃えるのは
コンサートの一番最後くらいで、
1曲目からここまでする指揮者は初めて見た。
しかし最初の演目とはいえ、楽聖のシンフォニー。
普通のコンサートなら十分にメインとなり得る曲だ。
この演奏会は、全曲がクライマックスであることを
マエストロは丁寧な所作で示してくれたのかもしれない。
ベートーヴェンの交響曲は
全てが奇跡としか思えない。
どれもが神がかっている。
描き出される苦悩は深海の底よりも暗く、
溢れる喜びは宝石のように煌びやかだ。
なぜひとりの人間が
このような偉業を成し遂げられたのだろうか。
信じ難い偉業だ。
不世出の天才の生涯を
妙なる調べを頼りに辿る。
こんな幸せな1日があろうか。
有名な第五番「運命」は
今まで聴いたどの演奏よりも素晴らしかった。
不穏さや苦悩を感じる3楽章から
連続して演奏される4楽章の歓喜の旋律に
涙が止まらなくなってしまい、
ハンカチを持ってこなかったことを悔やむ。
勢いは止まることを知らず、
大団円になだれ込む。
最後の一音がホールの天井に吸い込まれると共に
大歓声が巻き起こった。
観客の中には
早くもスタンディングオベーションで拍手している人も
見受けられた。
小林研一郎はやおら手をあげて喝采を静めると、
マイクも持たずに
声を張って話し始めた。
それは全てが美しい感謝の言葉だった。
秀逸な技術と感性を持ち合わせた
オーケストラ団員たちへの感謝。
そして今度は観客にまで。
観客の感動のオーラが音楽家を奮い立たせるのだと。
この謝辞に観客も湧き立った。
奏でる側と、聴く側の壁が取り払われ、
えも言われぬ一体感が醸成されていく。
敬愛と共感が入り混じる空気感に、
全ての人が安心して身を委ねる。
会場の温度が1℃上昇したように感じた。
時刻はまだ17時半を少し回ったところ。
あと6時間、まだ4曲聴くことができる。
と、喜んでいたのも束の間で、
時の流れは容赦なく過ぎてゆく。
そして22時10分、
いよいよ第九が始まった。
少年だった小林研一郎が、
ラジオから流れ出る第一楽章の第一音から心を奪われたという
原始宇宙が誕生する混沌のような調性。
この音が名指揮者を生み出し、
老齢となった今もなお
鼓舞し続けているのだ。
1楽章から3楽章までは
古典派の王道のような
堂々たる様式美の中で展開される。
そして、当時としてはあまりに斬新な
合唱が加わる4楽章。
4人のソリストが入場し、
背後に控えるオーケストラを超える人数の合唱団が
音もなく立ち上がった。
シラーの詩をベースにした、
壮麗な歌が披露されるのだ。
「おお友よ、このような音色ではなく、
もっと心地よく、
もっと喜びに満ちた歌を響かせようではないか」
歌唱の冒頭。
バリトンのソロの歌詞は
ベートーヴェンがシラーの詩に自ら加筆したものだ。
続いて、全宇宙の存在と
その神性を讃える合唱が
展開されてゆく。
人生はいつも厳しく、不条理な苦悩を突き付けてくる。
ベートーヴェン自身も例外ではない。
難聴をはじめとする体の不調に。家族問題。
遺書をしたため、自殺を考えたこともあった。
それでも彼はこの音楽を作り上げた。
苦悩の先にはきっと喜びがあるはずだと信じ抜くことこそが、
生きる、ということなのだ。
「神がもし、世界でもっとも不幸な人生を
私に用意していたとしても、
私は運命に立ち向かう」
「そして私にできることは何か。
運命以上のものになることだ!」
ベートーヴェンが残した言葉には音楽と同様、
不退転の意志がにじみ出ている。
最も有名な歓喜のメロディーが
高らかに歌い上げられる中盤。
小林研一郎は指揮棒を振るのをやめた。
彼は体を半分観客席に向け、
両手を緩やかにたなびかせていた。
まるで風を送るように。
「演奏者たちよ、歌い手たちよ。
ベートーヴェンの不屈の精神は時空を超え、今ここに蘇った。
楽聖が授けし希望と勇気を、
観客へ、そして全世界へ届けてくれ」
老マエストロの
ゆっくりとした僅かな動きの中には
燃え盛る炎が感じられた。
それは200年前にベートーベンによって生み出され
現代の僕らを明るく照らし、熱くしてくれている。
涙が止まらない。
感動、という単純な言葉では言い表せない感情。
意識が日常から離れた次元に飛んでゆく。
僕は小学生となり、ステージに立つ。
少し離れて、白いブラウスを着た母。
遠くには、黒い背広に身を包んだ父。
第九は人類にとっての至宝だ。
しかし同時に僕にとっては
親子3人の家族行事でもあった。
父も母も、そして僕も、色々あった。
遅くできた息子に
父がかける期待は大きかった。
その分、情熱はたまに行き過ぎ、
散々に殴られることもあった。
胸ぐらを掴まれ、体ごと床に叩きつけられたことも
一度ではない。
母は時に、自分の体で父の拳を受け止めながら
僕に覆い被さって守ってくれた。
鼻血が止まらない僕の顔を拭き、
恐怖のあまりに濡らしてしまった
パンツとズボンを黙って洗ってくれた。
決していい思い出であるわけはない。
しかし彼らが僕に注いでくれた情熱と愛情が
本物だったことだけは確かだ。
いつしか両親は他界し、僕は52歳となった。
なんと、ベートーヴェンが第九を作曲し始めたのが
52歳だという。
2年をかけ、54歳の時に完成させ、
56歳で没した。
偉人の軌跡に自分の歩みを重ねるのは
大変おこがましいことではあるが、
天才の人生にも凡人の人生にも
時間は等しく流れる。
この年代が、人生の集大成となるものに
挑むタイミングであることに関しては
もしかしたら変わらないかもいしれない。
僕はなぜこの時代に生まれ、
何を成すべきなのだろう。
ベートーヴェンのように
大きな炎をあげるのは土台無理だ。
でも僕にしか見つけられない、
小さなともしびがあるのではないか。
それを両の手で覆い、
優しく息を吹きかけ、
丁寧に丁寧に育ててゆきたい。
第九は、こんな僕にまで、
虚無感を乗り越え
諦めずにひたむきに歩を進める勇気をくれる。
コンサートが始まって12時間以上が経つが
小林研一郎も楽団員も一切の疲れを見せない。
それどころか、鬼神が憑依したように
勢いは増すばかりだ。
力の限りタクトを振り、
弓は弦の上を走り、
唇は管楽器を激しく震わせ、
撥が太鼓を打ち鳴らす。
最終盤のアッチェレランドは凄まじく、
テンポも音量も
上昇はとどまることを知らない。
炎が全人類の苦悩を焼き尽くし、
限りない歓喜が怒涛のように押し寄せる。
9つの交響曲を完結させる
最後の一音は決して終焉ではない。
星の死が超新星爆発と呼ばれるように
新たな世界が誕生したことを告げる福音だった。
一瞬の沈黙が訪れ、
今度は客席から爆発的な拍手喝采が起きた。
僕も立ち上がり、声の限りにブラボーを叫んだ。
楽団員の顔はどれも満足気で赤く染まっていた。
僕の目は涙に霞みながらも、
小林研一郎が胸の前で力強く拳を握り締め
それがブルブルと震えている様子を捉えていた。
長大な演奏会を走り抜けた84歳のマエストロは、
一層丁寧に楽団員を褒め称え、
観客にお礼を述べ、
手を振りながらステージを去った。
それでも拍手は鳴り止まない。
ソリストが退場し、オーケストラの面々がはけ、
合唱団の最後の一人が袖に消えるまで、
スタンディングオベーションを続ける人もいた。
僕もそのひとりだった。
亡き父が心から愛し、
母の命日に奏でられる人類の至宝。
生き残っているのは息子だけだが、
きっと両親も天国で涙しながら聞いていたに違いない。
また家族の思い出がひとつ増えたことを
僕は感じていた。
そしてこのコンサートが続く限り、
毎年来ようと心に誓った。
父が始めた家族行事を、これからも続けてゆくのだ。
後ろ髪を引かれる思いで席から離れ、
出口へ歩き始める。
階段を列になって進む観客の会話が耳に飛び込んできた。
「本当に素敵なコンサートでしたね」
「そうですね。
是非また来年も、ここで、お会いできるといいですね」
肩を並べ、長時間にわたって名曲を聴いたふたりが
感動を分かち合い、
初対面ながらに仲良くなり、
再会を約しているのだ。
これこそが、音楽の力だ。
“Alle Menschen werden Brüder”
「すべての人々が 兄弟となる」
合唱の中で繰り返し歌われるフレーズは
絵空事ではなかった。
ベートーベンが命懸けで具現化させようとした
愛に満ち溢れた世界。
それが確かに、誕生していたのだった。
2024年を締め括る
最後の涙が、
静かに頬を伝った。
※個人的な追記
2024年10月に入籍し、12月31日は夫婦二人で迎える最初の大晦日でした。
この演奏会もふたりで聴くはずだったのですが、
前日に妻が発熱し、僕ひとりで東京に行ってきました。
高熱に浮かされながらも「絶対に行ってきて」と僕を送り出してくれた妻には、
心から感謝しています。
そしてこの記事は、僕同様に演奏会を楽しみにしていた彼女が
「どんな様子だったのかを書いてほしい」と頼まれて書いたものです。
誰か特別な人のために文章を書くのも、なかなかいいものですね。
来年以降は一緒に鑑賞したいと思っていますし、
いつか僕が、山に獣を追うのがしんどくなってきた暁には、
ふたりで第九の合唱団に参加したいと思っています。
両親との家族行事だったものが、妻との新しい家族行事になるのも、また楽しみなことです。
黒川幸子様
お母様との温かい思い出を共有していただき、有難うございました。
苫小牧でも市民が参加できる第九があったことは知りませんでした。
また復活することを祈ります。
おかげさまで、妻は元気になりました。
今年が、黒川様、ご家族、全人類、全地球にとって、良い一歩となることを祈っております。
お問い合わせやご相談はこちらから。
お気軽にご連絡ください。
素晴らしい音楽会を文章で読んていて、感動が私にも伝わってきました。今は亡き私の母のことが思いだされます。苫小牧で20年程前にベートーヴェンの第九が演奏され、母は合唱に参加しました。ドイツ語を一生懸命に暗記していました。
今年は平和な年の始まりであって欲しいと思います。感動を伝えて下さりありがとうございました。奥様は、体調は良くなりましたでしょうか。お大事になさって下さい。