2021年10月16日
初めてヒグマを獲った翌日。
睡眠時間2時間でアラームが鳴り、目を覚ました。
布団が鉛のよう感じる。
体は更に重く、あらゆる関節と筋肉が悲鳴を上げている。
うつ伏せになって両手を突き、起きあがろうとするが
ひどい目眩を感じて頭が上げられない。
土下座のような姿勢で貧血が治るのを待つ。
しばらくしてようやく、フラフラと立ち上がることができた。
茫洋と散らばる意識の欠片を拾い集め、
思考回路に火を入れる。
よし、今日もクマを撃ちに行こう。
今猟期、ヒグマが冬籠りの穴に入るまで、
山に入れる日は、全部入る。
これは、心に決めていたことだった。
全部だ。
だからこそ、クマを撃った翌日こそが
本当に大事だと思っていた。
クマが獲れたからといって、疲労困憊だからといって、
山行を止めるようなことはあってはならない。
何年もかけて、ようやく山の頂点に君臨する
ヒグマの後ろ姿が見え始めたのだ。
ここで自分を甘やかすようでは、命をくれたヒグマに失礼だし、
山神も二度と微笑んではくれないだろう。
夕方からは仕事もあるが、
朝イチのアタックをかけることだけならできる。ならば、
選択肢は一つ。
今日も、山へ行くのだ。
猟場までは2時間。
夜明け前に、いつもの場所に車を停める。
昨日と同様、日の出と共に歩き始める。
さすがに体が疲れているのは否めないが、
最初から緊張感は全開だ。
ヒグマにとって、私の疲労度や体調なんぞは関係無い。
まずは、内臓を出す作業をした辺りを丹念に観察する。
ヒグマの肉が大好物だというヒグマ。
我々が現場を後にした直後からその場所に来ていたかもしれないし、
それどころか、作業する我々を藪の中から
じっと見ていた可能性だってある。
しかし足跡はなく、地面が荒らされた様子もなかった。
クマを仕留めたポイントに差し掛かる。
ここもヒグマの血の匂いがついているはずだ。
用心深く歩を進める。
24時間前にクマが吠え、転がり落ちていった斜面は静まり返り、
シダが微かに揺れているだけだ。
私は本当に、昨日ここでクマを撃ったのだろうか。
そのまま林道を進んでいるうちに、天気予報通りの雨となり、
山の中腹まで来た辺りで本降りになってきた。
やむを得ず、引き返すこととする。
この日、クマはおろか、シカの気配さえなかった。
しかし、これでいい。
山に行かない限り、その日にクマと出会えなかった、
ということさえ確認できない。
また、この日で言えば、
クマを撃った翌日の山にどんな空気が流れているのか、
自分の心境や歩き方はどう変化するのか、
或いは何も変わらないのか。
そうしたことは、この日にしか感じ取れないのだ。
これからも可能な限り山には入るが、
それで何も獲れなくても悔いはない。
今後の山行で一切猟果がなく、
単なる御礼参りで終わったとしても一向に構わない。
ヒグマ猟の成功がたとえ一度だけだったとしても、
私は十分に幸せ者だ。
なんとか、滑り込みで、間に合ったのだから。
急激に低下している視力。
それでもヒグマを見つけることができた。
筋量は全盛期に比すべくもない。
なのに、獲物を全て一人で山から下ろすことができた。
低下していく身体能力と積み重なっていく経験。
二つの曲線が重なる交点の座標を高く保とうと、
必死に努力を続けてきた。
そしてその一点を、遂にヒグマが踏んでくれたのだ。
今更ながら、なぜ私はヒグマを獲ることができたのだろうか。
理由の一つは、山全体を見るようになったことだろう。
「木を見て森を見ず」という格言もある。
クマを獲ろうとするあまり、クマだけを必死に探しても見つかりはしない。
山菜やキノコ、木の実、魚、鳥。
風と、光と、土の匂い。
そのようなものを全て観察し、
体の隅々までを使って、山の総体意識を捉えていく。
泥の下に隠された底辺を丹念に探らない限り、
雲の彼方に霞む頂点は見えてこない。
そして最大の要因は、月並みではあるが、
実直に山に通った、ということに尽きるのではないかと思う。
獲れるから行く、獲れないから行かない、
ではないのだ。
北海道の師匠、F氏もいつも言っている。
「何頭獲ったなどはどうでもいい。
重要なのは、どう獲ったか、だけだ。」
どれだけ獲れなくても、ひたむきにクマを求めて山を歩く。
その時点で私は、
少しずつクマ撃ちになっていったのではないだろうか。
そして、獲った翌日だろうが、
これまで通り変わらず山を歩く。
私がクマ撃ちであり続ける為に。
だからその後も、行ける日は全部山に行っている。
二頭の子熊の肉をシェアした狩猟同好会のメンバー達からは
後日、私がお願いしておいた
綺麗に煮た頭骨が届けられた。
子熊を撃ったF氏がそうしていたように、
頭骨を山にお返ししたかったのだ。
彼らを仕留めたその場所に酒をお供えし、祈る。
子グマが最期に登っていたトドマツの木を改めてよく見ると、
細く小さな爪の跡が残っていた。
幹を登ろうと上を目指し、そしてずり落ちている。
またしても胸が締め付けられる。
生後8ヶ月。
あまりに幼い。
樹皮に刻まれているのは、何も分からないままに母親を殺され、
それでもなんとか生き延びようと、彼らが懸命に足掻いた証だ。
私をまっすぐに見つめた、あどけない、
しかし恐怖に満ちた子グマの目が浮かぶ。
これからもきっと、事ある毎にその目は記憶の深淵から蘇り、
私を凝視し続けるのだろう。
正しく山と対峙していれば
獲物は向こうからやって来てくれる、
というのがネイティブ・アメリカンの狩猟観だ。
私自身の感覚としても、今回のヒグマは、
自分の狩猟のスキル云々というよりも、
結局は山神から授かったものだという意識が強い。
だとしたら、山神が私のもとに、
敢えて母子を遣わせたということにも、
何かしらの意味があるのかもしれない。
雄グマであれば、一頭で済んだはずだ。
母親を撃った結果、更に二つの、
無垢の命も奪うこととなってしまった。
誕生の結末は、常に死であることを。
喜びと悲しみは、切り離せないものであることを。
自然界の理を、山神は私に教えようとしたのか。
むしろ、その苦痛やトラウマこそを
私に与えようとしたのではないだろうか。
一方で、ちょっと待てよ、とも思う。
確かに子グマは可愛い。
しかし、私はこれまで当歳子のシカも撃ってきた。
母ジカの周りをはしゃいで飛び跳ねるバンビだって、
愛らしくてたまらない存在だ。
クマだけを特別扱いするのは人間のエゴ。
自分がまだ山の命の循環に入りきれていないからこそ湧き上がる、
不要で不完全な葛藤なのではないか。
狩猟から少し話は逸れるが、
一般の食肉についても考えてみる。
鶏の寿命は6〜7年と言われるが、
例えばブロイラーであれば殆どが生後40日ほどで屠殺され、
肉になるという。
羊の寿命は10〜12年だが、高値で取引されるラム肉は
生後12ヶ月以内のものを指す。
旨い旨いと、人間が何の罪悪感もなく食べている肉の中にも、
いたいけな命はたくさん含まれている。
本来、焼き鳥やジンギスカンを食べるたびに
我々は深く心を痛めるべきであり、
それは肉だけでなく全ての、食べる、という行為に
当てはまるはずだ。
自分で命を奪うからこそ、
ハンターはその痛みを強烈に感じてしまう。
いや、感じることができる。
獲物に死を与える者だからこそ見えてくる、
生の尊さがあると信じたい。
そしてその極め付けが、山神が私に遣わせた
親子グマだったのかもしれない。
最後に、母グマが倒れていた木に辿り着く。
根元に横たわっていた、巨大な黒い姿が思い出される。
残っていた酒を全てかけ、私もひと舐めする。
そこにもうクマはいない。
目を瞑り、幹を抱く。
山を巡る風の記憶を、掌を通じて聞き取っていく。
きっとあの母グマは、
この木を昇って還って行ったのだ、と感じだ。
空を仰ぐと、急に雲間から太陽が顔を出した。
暖かな陽光に包まれる。
なぜか、とても満ち足りたような、
愛されているような気持ちになる。
私を見下ろしているのは、
天に上った母グマか、
或いは山神自身なのか。
不意に、当たり前のことを思い出した。
アイヌの言葉で、ヒグマはキムンカムイ、山の神。
クマと山と神にそもそも境はない。
彼らこそが神そのもの。
生ける山神なのだ。
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