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リスとヤマネコとオオカミと






-31℃。

現地滞在中、最も寒かった日の気温だ。

1月下旬から2月上旬にかけての厳冬期、

北緯60度のカナダ・ユーコンを訪れた。



いつものように、

この地の先住民であるタギッシュ/クリンギット族の

キースの家に泊めてもらう。

到着してすぐの1月下旬は、まだそんなに寒くはなかった。

最低気温は-15℃くらいだっただろうか。

僕は母屋のすぐ隣に停められている

トレーラーハウスで寝ていた。

プロパンガスを使った暖房をつけ、

寝袋を二重にした上から毛布をかければ

寒さで目覚めることはなかった。

ところが−20℃を下回るようになると

室内の色々なものが凍り始め、

寝ていても手足の先がかじかんでくる。

ガスタンクもすぐに空になってしまう。

充填するには車で1時間はかかる街まで出ないといけない。

ガス代も安くはない。

時間もお金も消費が嵩む。

僕は母屋に移動し、

大きな薪ストーブが置かれた部屋の片隅で

寝かせてもらうこととなった。



そして、−31℃の寒波が襲ってきた日。

「あともう1℃、下がってくれればいいのに」

キースの言葉に耳を疑う。

これ以上の寒さを、なぜ望むのか。

そして、なぜあと1℃なのか。



実はこの地域では、気温が−32℃以下になると

すべての仕事が休みになるそうだ。

だから、あともう1℃だけ。

キースも、いつも通りに彫刻の工房に出かける。

太陽が昇ってくるのは10時過ぎだが、

仕事の開始時間は朝8時。

まだ真っ暗だ。

その中で、皆仕事場へ向かっている。

車を持たない人たちは

頭にヘッドライトをつけて歩く。

仕事場が屋内の人は、まだ恵まれている。

林業従事者や建設業者などは寒空の下、

丸々と着膨れした姿で仕事に励む。

降り注ぐ雪は、労働者たちを白く染め上げてゆく。

それでも彼らは手を止めることなく動き続ける。

脚光を浴びるわけでもなく、

名声を手にするわけでもない。

しかし、彼らこそが真の勇者だと僕は思う。






キースが仕事に没頭する間、

時に僕は森を散策する。

そこには驚くほど動物たちの痕跡が溢れている。

足跡、食痕、排泄の跡。

この厳しい環境下に、

これだけの野生動物が暮らしていることに驚く。

彼らにはダウンコートもなければ防寒ブーツもない。

夜に冷え切った体を温める薪ストーブもなければ

毛布一枚さえ持っていない。

それでも耐え忍ぶことができるのは、

体全体を覆う

密に生え揃った冬毛のおかげだ。



僕たち人類は、

体毛が少なくなるように進化を遂げてきた。

その人類が極北の地に進出するためには、

肌を覆う衣服が必要だった。

毛皮はそのための最も重要な素材だ。

寒さと戦うため、人類は野生動物に頼ってきた。

だから、先祖代々のライフスタイルを重んじる

キースのような狩猟採集民にとって、

厳冬期は最高の毛皮を得られる季節、という認識だ。



実際に彼らは毛皮で色々なものを作る。

帽子に、ブーツに、ミトン。

服全体を毛皮で作ることはあまりないようだが、

フードの縁取りに毛皮を使うことはよくある。

様々な化学繊維が開発された現代に於いて尚、

毛皮は最高の防寒対策であり、

彼らの生活の根幹を支える素材なのだ。








寒さが緩んだある日。

キースが猟に出るという。

狙いはもちろん、毛皮だ。

最も美味しいとされるヘラジカは

この時期には痩せているし、

何より既に去年の9月に獲っているので

この冬を越すための肉は確保済みだ。



毛皮猟に使うのは、罠だ。

この地域で使われている罠は

大きくふたつのタイプに分かれる。

スネアと呼ばれる、

動物の脚や首を、ワイヤーロープでくくるもの。

そしてキルトラップと呼ばれる、

首と胴体を強く挟み、瞬時に命を奪うものだ。



キースがスノーモービルのエンジンをかけ、

牽引する大きなソリに

たくさんの罠を積み込んだ。

僕は古いヤマハのスノーモービルを貸してもらう。

セルモーターはついておらず、

リコイルスターターの紐を思い切り引いて

エンジンを始動させる。

このスノーモービルに跨るのは2年ぶりだ。

古くてパワーはないが、軽くて扱いやすい。



ユーコンの罠猟師は、

トラップラインというそれぞれのルートを持つ。

キースのトラップラインは、自宅に直結している。

こんなに日常生活に密着したトラップラインを持つ人は

他にいない。

罠猟師にとっては恵まれすぎた環境だ。



出発してすぐ、二種類の足跡を見つけた。

ひとつがオオカミ、もうひとつがカナダオオヤマネコだ。

オオカミの足跡は犬と同じような形をしているが、

サイズは僕の手のひらより大きいくらいだ。

オオヤマネコの足跡も、

ネコとは思えない大きさで、全体が丸っこい。

カンジキのように新雪に沈まない構造になっている。

足の裏まで温かい毛で覆われており、

ネコにしてはとても短い尻尾は

寒冷地に適応した進化だと考えられている。

両耳から黒い房毛が突き出る

個性的な風貌だ。



オオカミは手強い相手で、

キースでさえ、まだ1頭しか獲ったことがない。

ところが今シーズン、キースが罠猟を教えている若手猟師が

オオカミを獲った。

足跡からは、3頭で行動していたオオカミのうちの

1頭を獲ったことが見てとれたそうだ。

しかし、そこに再度罠を仕掛けたところ、

今度は罠の周囲に5頭分の足跡がついていたが

1匹もかかっていなかった。

足跡を丹念に観察した結果、

生き残った2頭が、別の3頭を連れてきて

「これは危険なものだから、気をつけろ」

と教えたと思われる、との話だった。

オオカミの頭の良さを物語るエピソードだ。






雪面にたくさんの穴が開いていて、

トウヒの木の実の破片がたくさん落ちているのは

アカリスがいた証拠だ。

雪に掘られた穴は

木の実を保存するために埋めた跡だそうだ。


早速、そのリスを狙うことにする。

リスが使っている木に、

腕ほどの太さの枯れ木を切ってきて

斜めに立てかける。

そこに細い針金で作った

小さなくくり罠を4つ並べて仕掛けた。

垂直の幹に爪を立てて登り降りするより

斜めになった棒の上を移動するのを好む習性を

利用しているのだ。






スノーモービルが通れる幅の分だけ

森が切り開かれたトラップライン上を、

オオヤマネコがずっと歩いている。

そこにもくくり罠を仕掛ける。

オオヤマネコは足裏が柔らかいので

ゴツゴツした凹凸を嫌うとキースは言う。

スノーモービルのキャタピラの跡は

歩いてくれない可能性があるため、

片足を引きずって歩いて

トレイルを平らに均す。

獲物が仕掛けた罠のラインを歩くように

周囲に小枝を刺してルートを狭め、誘導する。






獣たちが冬を乗り切るには、

分厚い毛皮で体温を維持するだけでは不十分だ。

体の中から熱エネルギーを発生させるために、

彼らはひたすら食べ続けなくてはならない。

その原理を利用する罠が、キルトラップ。

狙うのは、オオヤマネコやクズリなどの肉食動物だ。



キルトラップには、

獲物を誘引するための餌を仕掛ける。

使うのは、前回の毛皮猟で獲った獣の肉だ。

人間が食べられる肉は食べ、

そうでない部分は罠猟に使われ、

毛皮猟といえども、肉を無駄にはしない。

他にもキースは、

自動車と衝突して死んだ

シカの脚なども使っている。

更に、遠くの獲物をまずは臭いで誘き寄せるために

ビーバーの臭腺から取り出したペーストを

罠のそばの小枝に塗る。

視覚を刺激するよう、

カモの翼も吊るす。

少し風が吹いただけでユラユラと揺れ、

その動きで肉食動物の好奇心を煽る戦略だ。



キルトラップを仕掛ける時には

細心の注意が必要とされる。

万が一罠に挟まると腕が折れるほどのパワーがあり、

指などは簡単に潰れてしまう。

安全装置をかけながら、

きちんと手順を踏めば安全に仕掛けられるのだが、

さすがに手出しをする気にはなれない。

この部分だけは手伝わずに、

キースの作業を観察していた。

危険ではあるが、

金属の枠が動物の頚椎を瞬時に破壊するため、

苦しませる時間は最短で済む罠だ。



他にも、罠には色々なバリエーションがある。

くくり罠も狙う獲物によって直径や高さを調整するし、

キルトラップも餌の種類や

諸々の仕掛けは毎回異なる。

正解があるわけではなく、

その場の状況や、猟師の経験や直感により

自在に変化するのが罠猟の醍醐味だ。

問われるのは、

どれだけ獲物の気持ちになれるか。

自分がその動物だったら、

何に魅力を感じ、何に警戒するのか。

動物になりきり、ひたすら想像する。

読みが当たれば獲れるし、

外れれば獲れない。

リス、オオヤマネコ、クズリ以外に、

コヨーテ、カワウソ、イタチも狙う。

6時間以上をかけ、総延長18キロのトラップラインに

41個の罠を仕掛けた。









3日後。

再びスノーモービルのエンジンに火を入れた僕らは

トラップラインの見回りに出かけた。



高まる期待とは裏腹に、何も獲物はかかっていない。

イタチの罠、カワウソの罠、オオオヤマネコのくくり罠、

ひたすら不発が続く。

キースは慣れっこのようで

仕掛けた罠を淡々と回収してゆく。

彫刻の仕事が忙しくなり、

しばらくは見回りもできなくなるので、

罠は全て撤去しなくてはならないのだ。



トレイルを進み、リスのくくり罠に辿り着いた時、

違和感を感じた。

よく見ると、枝の上に直線上に仕掛けた罠の

向きが変わっている。

リスの体が触れた証拠だ。

リスは狙い通りに、立てかけた枯れ木の上を走っていたのだ。

そして、4つ並べた罠の、一番下の罠が無くなっていた。

枝の下をキースが指差す。

そこには、明らかにリスのものではない

大きな足跡がついていた。

丸い輪郭。

オオヤマネコのものだ。

「一番下の罠にかかったリスがかかり、

それを針金ごとオオヤマネコが引きちぎって持ち去った」

とキースが教えてくれた。

なんと厳しい、野生界の生存競争か。

そこに人間が入り込むことの難しさを改めて知る。

しかし、驚くのはまだ早かった。






次に見つけた異変は、

そこから数十メートル進んだところに仕掛けた

オオヤマネコ用のくくり罠だった。

こちらも、ワイヤーロープが引きちぎられている。

思わず、キースと顔を見合わせた。

僕らは連続して、

罠にかけた獲物を別の動物に横取りされたのだ。



ワイヤーの切れ端と雪の上には

真新しい血痕もついていた。

きっと昨晩の出来事だ。



オオヤマネコが罠にかかり、

それを別の生きものが襲っている。

そして、人間の力ではどう考えても切ることができない、

針金を撚って作られたロープを

強力な顎の力で噛み切ったのだ。

そして、そばに残されていた大きな足跡が

強奪者の正体を物語っている。

こんなことが起きるとは。



このトラップラインで何が起きたのか。

頭の中でシーンが展開し始める。






===






アカリスは、

木から木へと跳び移りながら

トウヒの実を探している。

小さな球果を見つけるとバラバラに崩し、

ゴマ粒よりも小さい実を取り出して食べる。

当座の空腹が収まると、

今度は頬袋に実を詰め込み始めた。

長い時間をかけて根気よく集め、

徐々に頬袋が膨れてくる。

そろそろ雪の下に埋めよう、

と思ったリスは

一旦、木の上から降りることにした。



しかし、地面は危険極まりない。

キツネにヤマネコが

いつも獲物を探している。

さっきはタカも空を旋回していた。

素早く降りて雪の下に実を隠したら、

すぐに木の上に戻らなくてはならない。

太い幹を駆け降りてもいいが、

よく見ると、ちょうど細い枯れ木が

幹に斜めに寄りかかっている。

それを伝った方が、上り下りしやすい。



リスは横枝から跳び移り、猛然と走り始める。

枯れ木からは

銀色の細いツタのようなものが飛び出ている。

多少の違和感を感じながらも

すり抜けてゆく。

見る見る内に地面が近付く。

足元から目を離し、着地点を探す。

その瞬間、体に強い衝撃を受けた。

気付けばツタに絡まっている。

身動きが取れない、危険な状況。

脱出しようともがく。

しかし体は自由にはならない…






その日、いつものように

オオヤマネコは腹を空かせていた。

2、3日前にカンジキウサギを捕えたが、

腹の中ではもうすっかりこなれてしまい

跡形もない。

何か獲物はいないものか。

びっしりと毛の生えた足裏を

ゆっくりと雪に降ろし、

音を立てずに忍び足で歩く。



遠くから微かな音が聞こえる。

何か、小さなものが暴れているようだ。

逸る心を抑える。

走り出したい衝動を堪え

足音を立てないように近付いてゆく。



大きなトウヒに寄り掛かっている

細い枯れ木。

そこに何かがぶら下がって暴れている。

さらにゆっくりと忍び寄る。

アカリスだ。

細い銀色のツタに絡まって身動きが取れなくなっている。

あれなら労せずして捕えることができる。

身を低くして接近し飛び掛かった。

細いツタごと引きちぎり、音もなく着地する。

小さな叫びを上げたリスは

すぐに静かになった。



今日は本当についている。

どこか安全な場所に身を隠し、

ご馳走にありつくこととしよう。

口の中のリスはまだ温かく

滲み出す血の味が食欲をそそる。

早く食べたくてたまらない。

気もそぞろに開けた道を歩いている時、

不覚をとった。



あのリスと同じ状況だ。

頭が銀色のツタに引っ掛かってしまった。

前に、後ろに、突進しても外れない。

横っ飛びしても引き戻される。

思い切りツタに噛み付くが

全く噛み切ることができない…






この森を統べるもの。

厳寒の冬を果敢に乗り切る動物たちの中でも、

最も強く、逞しく、そして美しきもの。

気高く、賢く、用心深く、

決して人間に姿を見せることはない。

しかしそれは、

二人の猟師が森に入って来て

罠を仕掛けて帰るまでの一部始終を

木々の影からじっと見ていた。



それからも毎日、森を巡回する。

嫌な予感が当たった。

可哀想に。

オオヤマネコが罠にかかっている。

逃げ出そうと躍起になっているが、

既に疲れ果てている。

助けを求める目で私を見ている。

楽にしてやる方法はひとつしかない。



オオヤマネコの首元に牙を突き立てる。

頸椎が折れる音がした。

この獲物、

みすみす人間どもに渡してたまるものか。

銀色のツタは思いのほか強靭だった。

しかし、力の限り何度も噛み付いている内に

急に呆気なく切れた。



これからゆっくりとお前を喰らおう。

お前の体と心は私の一部となる。

そしてお前は、

新しい命を生きるのだ。

私と共に。



オオヤマネコを咥えた巨大なオオカミは

悠然と森の奥へと姿を消した。






===






トラップラインの一番奥。

折り返し地点に仕掛けたキルトラップに

ようやくオオヤマネコがかかっていた。

結局、今回の罠猟で

僕らが手にすることができたのは

この1匹だけだった。

体重は16キロ近く。

なんと、キースが今まで捕えた中で

2番目に重いという大物だ。



歳をとったオスで、

左上の牙がすり減っていた。

牙がすり減ったオオヤマネコを見るのは

キースも初めてだそうだ。

この牙でよくここまで生きてきたものだと、

しきりに感心していた。



「生きた獲物を捕まえられなくなり、

  腹を空かせたあまりに罠にかかったのかもしれないな。

いずれにせよ彼は

この冬を生き抜くことはできなかっただろう」



オオヤマネコの頭を愛おしそうに撫でながら

キースが呟いた。














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