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ある雄鹿の独白




この山で何年も生きてきたが、

こんなに雪が多い年は、初めてかもしれない。

笹さえも埋もれてしまい、

硬い樹の皮を必死に齧りとる日々。

水場も簡単には見つからない。

年寄りの身には堪える冬だ。






かつて私の体は大きく強かった。

自慢の角を振りかざしては

次々と現れる強者たちの挑戦を全て退け、

多くの雌鹿を従えてきた。



しかし今は、角が三つ叉になったばかりの

若造にも敵わなくなってしまった。

寂しいことだが仕方がない。

角を突き合わせても、踏ん張りが効かない。

そもそも私には、後ろ脚が一本、足りないのだから。





あれは二年ほど前の夏だったか。

二本足の不格好な動物が切り開いた土地には

青々とした草が生い茂っていた。

いかにもうまそうだ。

暗くなった頃を見計らって山を降りた。



腹が減っていた。

ひと口食べてはまたひと口。

徐々に夢中になっていった。

あの一瞬の油断が悔やまれる。



突然、何かが右の後ろ脚に喰らい付いてきた。

反射的に真上に飛び上がる。

脚に引っかかっているツタは

コクワやヤマブドウとは違って銀色に光っている。

巧妙に土の中に隠れていたのだ。



垂直に立ちはだかる崖を

幾度となく駆け上がってきた脚力だ。

こんな細いツタなどすぐに引きちぎってやる。

思い切り走り出す。

しかし強い衝撃で引き戻される。

何度繰り返しても結果は同じだ。

手強い。

銀色のツタが徐々に皮に食い込んでいく。

それでも、全力で地面を蹴り続ける。



嫌な音がした。

感じたことのない痛みが全身を貫く。

銀のツタが食い込んだ部分で

骨が砕けたのだ。

右後脚はもう使い物にならない。

だからと言って、諦める訳にはいかない。

諦めてしまえば、待っているのは死のみ。

最後の最後まで戦い抜く。

それ以外の生き方は知らない。

残りの三本の脚で跳ね続ける。



不意に体が自由になった。

蹄が丸ごともげたのだ。

先端を失った右後脚。

地面に触れるたびに激痛が走る。

しかし、死ぬよりはいい。

これで良かったのだ。

脚を一本失いはしたが、

今日も生き延びた。






秋が終わり、雪が降り始める頃には、

三本脚で生きていくことにも慣れてきた。

折れた脚の先は

ただぶら下がっているだけ。

力は入らない。

血も通わない為にどんどん痩せ細ってゆく。

それでも、なんとか冬を越した。

比較的、冬が暖かかったことも幸運だった。






春。

自慢の角が落ちた。

これまで角を重いと感じたことなど無かったが

この時ばかりは、ほっと安堵した。



すぐにまた新しい角が生えてきたが

今年は何か変だった。

空に向かって伸びる若い楢の木のように

枝分かれしながらグイグイと成長していくはずの角。

右の角は、ある程度伸びた。



しかし、左側は全く長くならない。

思うように草が食べられず、

全身に栄養が回らなかったからか。



結局、左の角は

花梨の老木の瘤のような

醜い塊となってしまった。






夏。

真っ黒な枯れ枝のようになった脚から

嫌な臭いがしてきた。

どうやら腐ってきたようだ。



そしてある日。

遂に脚の先が落ちた。

傷口からは折れた骨が露出している。

これは厄介だ。

歩くときには脚をつかなくていいが

座るときや立ち上がるときには

どうしても傷口が地面に触れてしまうのだ。



しかし、痛みに耐えながらも

無理矢理に傷ついた脚を使っていると、どうだ。

突き出ていた骨の周りを

みるみるうちに肉が覆ってきたではないか。

毛皮からは毛が抜け、

傷口を取り囲む皮は黒く硬くなり、

見た目も質感もまるで蹄のようになってきた。



秋。

戦いの季節が、今年も巡ってきた。

私が雄だというだけで、

他の雄は敵意をむき出しにして突進してくる。

この体ではまともに戦うことなぞ無理だ。

踵を返して逃げるが、ノロノロとしか走ることができない。

若い鹿が小馬鹿にしたように

尻に角を突き立ててくるが

今の私に反撃することもできない。

情けない話だ。

雌を見つけて近寄っても、相手にされない。

子を成すことができなかった秋は、

これが初めてだった。






そして冬。

豪雪の中、ひたすら飢えと戦った。

痩せたとはいえ、私の体は大きい。

今まで四本の脚に分散してきた体重が

三本だけにかかる。

尖った蹄が、雪に深く刺さる。

ヨロヨロと歩きながら

食べられるものを探す。

ますます体が細くなってゆく。

栄養不足からか、

左の角が、春を待たずして

抜け落ちてしまった。






もう限界か、と思い始めた頃。

山の神は、まだ私を見捨ててはいなかった。

暗く寒い夜が、少しずつ短くなってきたのだ。

日差しも確実に暖かさを増している。

小鳥たちが賑やかにさえずり

木々の冬芽も膨らんできた。

ふきのとうが顔を出すのももうすぐ。

あと少し、なんとかしのぐのだ。

あと少しだけ。






うららかな光が降り注ぐ午後。

日当たりの良い斜面で

微睡んでいた時のことだった。

ザクザクと足音が聞こえてきた。

三本脚でもがくように起き上がると

私よりもさらに足が少ない

あの二本足の動物が

近くを歩いているのが見えた。

しかも、不快で大きな破裂音のする

黒い筒も持っている。

その音が響く度に、仲間が一頭ずつ消えていった。

危険だ。



必死にに走り出すが

やはり思うようには進まない。

そして、雪に脚をとられてしまった。

振り向くと、

既に二本足の生きものは

私に向かって黒い筒を構えていた。



山の神よ。

年老いた私に、どうか力を貸してくれ。

私は生まれて初めて、神に祈った。



その途端、

耳をつん裂く雷鳴が轟いた。

小さなつぶてが、

右から左へ、胸を貫く。

たまらずに坂を転げ落ち、倒れこんだ。



どうしてだ。

なぜ神は、私の願いを聞き入れてくれなかったのか。

真摯に生きてきた私を

なぜ、貴方は見捨てるのだ。



二本足の生きものが

あたふたと駆け寄って来る。

もう私は動けない。

そんなに慌てなくても良いのに。

不器用で、不躾な輩だ。



そしてそいつは、

つららのような銀色の棒を

腰から引き抜くと、

私の喉元に突き立てた。

胸に感じた痛みに比べれば

可愛いものだ。

傷口からは、自分でも驚くほどの血が

勢いよく噴き出ている。



二本足の生きものが、

私の頭を撫でながら、目を覗き込んで来た。

これが、私が見る最後の光景なのか。

妙に悲しそうな顔をしている。

自分で殺しておいて悲しむとは、

なんと愚かな。

喰らいたくば、迷いなく喰らえ。

それが山の掟。

掟を理解できないものは

永遠に山の生きものにはなれない。



血がどんどん失われてゆく。

もしかすると、

これでようやく楽になれるのかもしれない。

ここしばらくはずっと、

飢えと痛みしかなかった。

生きているうちは、

どんなに辛くても生き続ける

という選択肢しか存在しない。

しかし命が終わるなら、

ゆっくり休む、ということも許されるだろう。

ようやくこの苦しみから、

解放される時が来たのだ。



仕方ない。

私は私の体の一部をこの愚か者に与え、

山での生き方を教えてやろう。

少しでも学んでくれるといいのだが。



愚か者が山を降りると同時に、

私の体は、待ち構えていた狐や鳥に食べられるだろう。

そして私はすぐに彼らに姿を変える。

再び四本の脚で大地を駆けることもできれば、

憧れだった翼をはばたかせ、大空を舞うこともできるのだ。






最期の息を吐き切る。

そう、これは、新しい命への祝福。

生まれ出ずる命が、最初の息を吸うために

どうしても必要な儀式。



私を包む光が、強さを増す。

世界は一面、美しいエメラルドグリーンに輝いている。






山の神よ。

貴方は私を見捨てたのではなかった。



私の魂が、永遠の緑の中に溶け込んでゆく。



そして私たちは、ひとつとなるのだ。







※このシカが括り罠で脚を失ったという設定は、

 単なる私自身の想像であり、罠猟を批判するものではありません。

 (私自身も罠猟の免許を持っています。)





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