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単独忍びヒグマ猟記 撃




斜面に生い茂る、

深緑のシダの中。


不意に、真黒なものが

蠢いているのに気付いた。

特有の、ぼっこりとした肩の盛り上がり。



一瞬でヒグマと分かった。



こんなにも、黒いのか。



分岐を上に行くことにはしたが、

下の気配の濃さも気になっていて、

かなりの意識を斜面下方向に向けていた。

ヒグマはまさに、そこに居た。

下にあった足跡と、

上で見つけた新鮮なフンを繋ぐ導線上。

私がクマの気配が濃いと

感じていた場所だ。



体は横向き。

頭は下げていて見えない。

下半身も草に隠れており、

私から見えるのは太い首から肩口のみ。

あまり大きくはないが、

子供でないことは確かだ。

私には全く気付いていない様子。

距離は50メートル弱。

完全に射程圏内だ。



体が自然に動く。

腰を下ろして左膝を立て、

その上に左肘を置いて銃を構える。

スコープの中には真黒な首筋。



ヒグマを撃つ、ということは、

自分が反撃される可能性があるということ。

下手をすれば命を失う、ということだ。

その瞬間に動揺して引き金が引けなかったり、

あらぬ方向に弾を外して

クマを半矢にしてしまったらどうしよう、

といった不安をずっと抱えていた。

しかし、ヒグマを目で捉えてから

狙いを定めるまでほんの数秒。

完全に平常心で、落ち着いていた。






ヒグマをターゲットにして以来、

「死にたくはない。

でも本当にやりたいことをやらずして、

何の為の人生か」

という自問自答を繰り返してきた。

どうやらその逡巡の過程で、

恐怖との戦いは

私の中で既に処理されていたようだ。

心拍数も全く上がらないままに、

気がつけば撃鉄を落としていた。





ヴォオオーッ!」という

凄まじい吠え声が響き渡る。

かなりの致命傷を与えた手応えがあった。

しかしヒグマはその場では潰れず、

斜面を駆け降りていった。



見守っていると、

新たな黒い影が近くから飛び出した。

スルスルと木を登って行く。

子グマだ。

小さい。

今年生まれの当歳子だ。



この時私は、自分が撃ったのが

子連れの母グマだったことを知る。






何とも言えない苦い思いがこみ上げる。

冬穴に母親と一緒に入る当歳子は、

自分ひとりだけの力では

冬を越すことはできない。



一度引き金を引いた責任。

それは、仕留めるからには、

きっちりと最後までやり切ることだ。



北海道の師匠F氏からも

「もしメスを撃ったのなら、

 子っこまで全部撃て」

と言われており、

実際にF氏もそうしていた。



親を撃った姿勢のまま、

即座に銃の向きだけを変え発砲する。

幹を抱える力を失った子グマが

スローモーションのように

ズリズリと下がっていく。



トスっと地面に落ちる音が軽い。

その軽さが、逆に重く心にのしかかる。






視界から全てのヒグマが消えた。

斜面を落ちていった母グマは

どこに行ったのか。

探さなくては。



不意に動悸が速くなり、

足が震え始めた。

体が反射的に動いていた状態から、

心がふと我に返ったのだ。



手負いにしたヒグマほど危険なものはない。

瀕死の重傷を負いながらも巧みに身を隠し、

最後の一撃を食らわせる力を温存しながら、

じっと追手を待つ。



ヒグマ猟のレジェンド、久保俊治氏の著書によると、

ヒグマの柔軟性は高く、

大きな個体であっても、

20センチほどの窪みがあれば

完全に体を隠すことができる、とある。

ヒグマ猟に於ける死亡事故の典型例が、

手負いにしたクマを追跡する中で反撃された、

というものだ。



書籍や、諸先輩方から

散々聞かされてきた恐怖のエピソード。

それをまさに今、

自分がリアルに追体験しようというのだ。

怖くない訳がない。



しかし撃ったヒグマにとどめを刺し、

回収するには、見失った獲物を

探す以外に方法はない。






意を決して立ち上がる。



5センチ進んでは、

そこから見える全てのものを確認する。

少し遠ければスコープで丹念に覗く。

下の方から微かなヒグマの唸り声が聞こえてきた。

致命傷を負った母グマの最期のあえぎなのか。

或いは木の上から落とした子グマがうめいているのか。



声の主からはまだ少し距離がある。

頭から爪先まで、

全てを感覚器官として研ぎ澄ませ、

じりじりと進む。

口の中がカラカラに乾いて、

唾もうまく飲み込めない。



不意にガサッという音がした。



母グマが飛びかかってきたのかと思い、

振り向きざまに据銃する。



すると、新たに子グマがもう一頭、

トドマツを登ろうとしていた。

幹が太すぎてしがみ付けないのかうまく登れず、

落ちそうになりながらも

懸命に上を目指している。

座っては藪が邪魔で見えなくなる為、

立ったまま狙いを定める。



子グマが動きを止めた。

スコープ越しに目が合う。

まだあどけない可愛らしい子どもが、

恐怖に怯えた目で私を見つめる。

その目が、

「なんでこんなひどいことをするの?

 僕たちがどんな悪いことをしたの?

 もうやめて。どうか堪忍してください…」

切々と語り掛けてくる



今まで、こんなに苦しく、

重かった引き金はない。

いつもは「獲りたい」「食べたい」と引く引き金を、

この時ばかりは責任感のみで、

無理矢理に落とす。



糸を切られた操り人形のように、

関節がカクカクと不自然に曲がりながら

落ちていく子グマ。



心がズタズタに引き千切られる。

急所を射抜き、苦しみの時間が短いままに

即死してくれたことが、せめてもの救いだった。






完全な無音が訪れた。



鼓膜が微かに震えるのは、

私が一歩を踏むときだけだ。

しかし音がしないからといって油断はできない。

それどころか、狙いすました一撃を喰らわそうと、

完全に息を殺して私の接近を待つ母グマの像が、

脳内で巨大化していく。



1メートルを進むのに何分をかけたのだろうか。



数十メートル先、ようやく地面に横たわる大きな黒い塊を見つけた。



全く動かない。

どう見ても、完全に事切れている。

腹や背中を見ても上下はしていない。



いくら死んだふりをしていても、

呼吸を止めることはできないはずだ。



そばに落ちていた枝を投げてみる。



ゴツンと頭に当たるが、反応は皆無だ。

それでも怖い。

死んだと思ったヒグマに反撃されて

命を落としたハンター達も、

ヒグマが絶命したことをきちんと確認した上で

近づいていったはずだ。


ヒグマはどこまで死を演じることができるものなのか。

狩猟を始めて5年、

きっと何度もニアミスを繰り返しているだろうに、

完全に存在感を消し去って

私をやり過ごしてきた彼らの潜伏能力は計り知れない。



立ち上がったクマにそのまま襲われないよう、

後ろから近づく。

弾を装填したままの銃で、

そっとクマに触れる。

反応はない。



続いて少し強くつついてみる。

やはり微動だにしない。



前に回り込み、銃の先端で、

クマの鼻先に落ち葉を寄せてみるが、

そよとも動かない。



さすがに大丈夫だろう、と判断した。






まずは弾の入りどころを確認する。



首の右側の付け根に弾痕を見つけた。

その場で潰れなかったので、

頚椎を破壊した訳ではないのだろうが、

狙い通りに良いところに入ってくれていた。






憧れのヒグマ。

生態系の頂点に君臨する、山の王。

敬虔な気持ちでしげしげと眺める。



強い、ということが、

美しい、ということと同義であることを

改めて実感する。

私はその強さを手に入れた。

そしてヒグマ達の美しい命は散った。

大きな喜びと共に押し寄せる、深い悲しみ。

涙が止まらない。

遠くに逃げればいいものの、

母のそばを離れず私に撃たれた子グマ。

命乞いをする顔が頭から離れない。

声を上げてはならぬ気がして、

歯を食いしばったまま、しばらく泣いた。



何年も前にユーコンで聞いた、師匠・キースの声が蘇る。

「撃ったからには、

 それはもう人々に喜びをもたらす恵みだ。

 悲しむのは撃たれた獲物に失礼だ。」

キースの言うことは正しい。

私は獲りたいから、獲ったのだ。

涙を流している場合ではない。

そして獲ったからには、この肉を必ず、

美味しいものに仕上げなくてはならない。






次の作業は、血抜きだ。

自作のナイフを腰から抜く。

ナイフ作りの名手でもあるF氏に一から手解きを受け、

2年以上かけて作ったナイフ。

ギリギリでこの猟期に間に合わせることができた。

このナイフで止め刺しをする二頭目がヒグマとは。

常に獲物の姿を思い浮かべながら、

礼を尽くしてブレードを磨き上げてきた甲斐があった。



首の根元を探る。

思ったより柔らかい毛。

中に手を入れると熱いくらいだ。

胸骨の上の窪みを探り当てる。

一気にナイフを刺す。

何の抵抗もなく、スリッと刃が飲み込まれていく。



心臓から肺に繋がる太い動脈を切るのは、

きっとシカの時と同じはずだ。

しかしどれだけナイフを深く入れればいいのだろうか。

とりあえず刃が届く一番奥まで差し込んだ。



血の通る隙間を開けると、

温かな奔流が溢れ出す。

流れが緩やかになり、止まる頃には、

血に染まった私の手も徐々に冷たくなっていた。



大丈夫だ。

十分に血も抜け、これできっと

旨い肉になってくれるに違いない。

安堵感と重い精神的疲労が押し寄せ、クマの隣に座り込んだ。






それでも実感はまだ湧かない。

本当に自分はヒグマを仕留めたのだろうか。

目が覚めて全ては夢だった、ということではないのか。



ヒグマの爪を撫で、弾力のある肉球を触る。

大きな手。

大柄な雄に比べたら小さいのだろうが、

私にとっては十二分に巨大だ。

クマと手を繋ぐ。

爪の先は思ったより尖っている。

冬眠用の穴を掘ると先端がすり減るというが、

まだそんな時期ではないからか。



毛皮に顔を埋めて大きく息を吸い込む。

トドマツの爽やかな香りと、

穀物蔵のような懐かしい匂いが胸一杯に広がる。

そんなに強くはなく、不快感もない。



これがヒグマの匂いか。

記憶に、心に留めようと必死に嗅ぐ。

しかしどれだけ私の脳は、

この香りを憶えていられるのだろうか。



体中の匂いをくまなく嗅いでいく。

毛の薄い腹から出ている乳首。

これまでも張りのある雌シカの乳は吸ってきた。

子グマ達は一体どんな味の乳を飲んできたのだろうか。

出産から8ヶ月ほどたったクマでも乳を出すのだろうか。



試しに吸ってみたが、残念ながら

母グマの乳房からは、何も出てこなかった。




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