2022年8月23日
「クリーン・ミート」という単語を
聞いたことはあるだろうか。
恥ずかしながら、私も最近知ったばかりである。
その名の通り、雑菌が皆無の清潔な肉であり、
動物倫理問題も綺麗に解決した肉らしい。
当初は「試験管ミート」と呼ばれていた。
つまりは家畜を殺すのではなく、
家畜から採取した組織を培養して作られた肉で、
その工程は「細胞農業」と呼ばれている。
消費者は肉を食べたいだけなのに、
肉以外の部分、つまり内臓や骨、角や蹄まで育てるのは
コスト的に見て大変非効率である、という観点に立つ。
大地を歩くのではなく、シャーレや醸造タンクに浮かび、
草を食べ大気を呼吸して成長するのではなく、
酸素・ビタミン・ペプチド・糖類などに浸されて
人工的に栽培されるクリーン・ミートは
地球を救う新しい産業として注目を集めており、
大手のベンチャー・キャピタルや著名な投資家が
こぞって巨額の投資を注ぎ込んでいる。
私はハンターであって、
科学者でも、畜産農家でも、ましては投資家でもない。
しかし、食肉を得る為に活動をしている、という意味では
同じカテゴリーに入るとも言える。
自分の足で山を歩き、野生の肉を獲る人間として、
細胞を培養して肉を得ようとする技術や思想につき
色々と考えてみた。
クリーン・ミートが解決するとされる課題は
大きく分けて二つ。
環境問題と、動物倫理だ。
まず、環境に与える影響から見ていこう。
畜産の短所として指摘されているのが、効率の悪さだ。
家畜用飼料は、膨大な面積を開拓した農地で
農薬をたくさん使用して作られる。
そうした餌や水、大量の抗生物質を与え、家畜は育てられる。
1羽の鶏を卵から育て、その肉をショーウィンドウに並べるには
3,800リットル以上もの水が必要だそうだ。
そして、飼料も家畜も肉も長距離輸送され、大量の燃料を使う。
畜産業による温室ガスの排出は、
自動車・列車・船・飛行機・宇宙船の
全合計よりも多いという試算もある。
例えば牛肉であれば、クリーン・ミートは従来の牛肉に比べ、
エネルギーは45%、土地面積で99%、水量で96%、
少なくて済むという。
さらに、衛生面でも大きな差がある。
家畜であれば、精肉の過程で、排泄物によって
大腸菌やサルモネラ菌などで汚染される危険性があり、
実際に食中毒による死者も出ている。
しかし、そもそも消化器官がないクリーンミートでは
そうした問題は起こりようがない。
室温で数日放置すると、従来の肉はカビだらけで腐るが
クリーン・ミートでは菌が繁殖せず、腐りもしないそうだ。
倫理面からも、現在主流となっている工場式畜産には
大きな問題がある。
豚舎では、一頭ずつが、振り向くこともできない柵の中に、
通路に尻を向けて並べられている。
世話をする人間が、性器を常にチェックする必要があるからだ。
効率的に子豚を産ませる為に、発情の兆候は見逃せない。
犬よりも頭がいいとされ、社会的で好奇心も強い豚は
人間が豚舎に入ってくるとそちらに顔を向けて寄ってきてしまう。
それでは性器を見ることはできないため、
体を後ろ向きに固定するのだ。
そして、生まれた子豚はすぐに母親から引き離され、
母親と同じ運命を辿る。
以下は、私自身が養牛業界の方から実際に聞いた話だ。
乳牛は妊娠していないと乳の出が悪い。
そこで強制的に人工受精卵を体内に入れられ、妊娠させられる。
自分で優秀な雄牛を選んで番う雌牛など存在しない。
どうせ妊娠させるなら、生まれてくる子牛も
人間にとって有用なものがいい。
牛乳を得たいなら、メスと分かっている受精卵を植え付ける。
ただし、雌牛ばかり増えても、牛舎のキャパは限られている。
ならば一部は美味しい肉が取れる牛にして出荷するのがベストだ。
できれば高く売れる肉を。
そこで、乳牛であるホルスタインの腹には
松坂牛などの受精卵が入れられる。
DNAが松坂牛であれば、代理母は誰であっても構わない。
現在、高級和牛として流通している肉の母親のほとんどは
実は乳牛だというから驚きだ。
その肉牛は出荷前、ビタミンAの摂取を制御される。
サシが綺麗に入った肉を作るためだ。
ビタミンAの欠乏は目に悪影響を与え、
屠殺前には失明してしまう牛も多いという。
A5ランクの高値がつく肉が、
実は乳牛から生まれた盲目の牛のものだと知らずに
嬉々として食べている人間のなんと多いことか。
もちろん、動物倫理の観念の発達した畜産家もいるだろう。
しかし現実的には、流通している食肉の多くが
効率を最重視した工場式畜産によるものだという。
高値がついたり、効率が良ければそれでいいと、事実は隠蔽され、
安く買えたり、美味しければそれでいいと、
消費者は事実を知ろうとしない。
生産の過程でも、屠殺の過程でも、
家畜がかわいそうだという声はよく聞かれ、
それを救えるのは、クリーン・ミートしかないという。
そして、その技術は加速度的に高まっており、
今では3Dプリンターの技術も使い、
筋肉の隙間に人工的に脂肪を重ねて
サシの入ったステーキを作る研究が急ピッチで進んでいる。
ただし、人工的に培養された肉に抵抗を覚える人はいないのか。
積極的に食べようとする消費者が果たしてどれだけいるのか。
そこで、細胞農業に関わる人たちは
より精神的にハードルの低いジャンルから
培養肉を社会に浸透させようと狙っている。
例えば、高級珍味でお馴染みのフォアグラ。
ガチョウの脂肪肝だが、その作り方が残酷だという話は有名だ。
大量の強制給餌により肝臓は正常時の10倍まで肥大化し、
太りすぎて歩くこともできなくなる。
こうした、特に家畜に負担をかける食品を
培養テクノロジーで作る。
フォアグラが好きな人たちは、
クリーン・フォアグラを食べることで
動物愛護団体からの誹りを回避する。
技術的に見ても、筋細胞よりも肝細胞の方が培養しやすく
脂肪肝にするのも容易いという。
同じく、筋肉よりも培養しやすく、
消費者が受容するにあたり精神的ハードルが低いと思われる、
牛乳・卵白・レザーなどを先行して開発し
広めていこうと狙っている企業も多数存在する。
以上、クリーン・ミートに関わる現状を
簡単にまとめてみた。
さて、このクリーン・ミート。
確かに清潔で、コスパは良さそうだ。
何より、響きが良い。
試験管ミートという呼び名では嫌悪感を覚えるが、
クリーン・ミートなら買い物カゴに入れる人もいるだろう。
遺伝子組み換え酵母を
デザイナー酵母、と呼んだりして
イメージアップを図るのと同じ戦略だ。
しかし本当のクリーンとは、何なのだろうと考えてしまう。
雑菌は確かに少ないかもしれないが
完全に無菌のものばかりを摂取していると
異物の侵入に対しての人間の抵抗力は
どうなってしまうのだろう。
培養された肉を食べることで
未知のアレルギーなど、
思わぬ副作用が出てしまったりしないのか。
細胞に与えられる人工的な培養液は
本当に安全でクリーンと言えるのだろうか。
そして本物のミートとは、という部分も気になる。
昨今は、植物由来のフェイク・ミート食品も多い。
主にベジタリアンやヴィーガンのために開発されたものだ。
それらとの比較が論じられるとき、
クリーン・ミートは本物の肉であるところが違う、
と表現されることが多い。
確かに、味や食感、そして栄養素は
フェイク・ミートとは全く違うだろう。
だからと言って、それを「本物の肉」と呼ぶところに
私は違和感を感じる。
化学組成が肉と同じであれば、それは肉なのだろうか。
筋肉の存在意義は、体を動かすことである。
心臓の鼓動、腕や脚の屈曲や伸展。
体を動かすための組織を肉と定義するなら、
液体の中で培養されるだけの細胞は肉とは言えないのではないか。
また、体を動かす目的は個体や種の生存である。
クリーン・ミート自身には自発的な目的はない。
人間に食べられる、という目的を、
人間に押し付けられただけの、かわいそうな存在だ。
それは一体、命と呼べるものなのだろうか。
食育上、クリーン・ミートの位置付けはどうなるのだろう。
「いただきます」という大切な言葉は、
命をいただいている、ということ。
だから、きちんと残さず、感謝をして食べなさい、とする
家庭や学校での情操教育は、今後も成立するのだろうか。
子供たちは平気で肉を残すようになり、
いずれ彼らが親となったら、
次の世代はどうなってしまうのだろう。
クリーン・ミートの書籍や記事に、
そのあたりの考察は
全くと言っていいほどなされていない。
意図的に避けているのだろうか、と
思わず勘繰ってしまうほどに。
強調されるのは、環境面の負担軽減、
動物愛護の立場からの利点、
そして、新しい産業を論じるのに欠かせない
市場規模の予想や経済効果。
有名な実業家や、世界的な俳優がいくら投資した、
などのお金の話だ。
あらゆる考察や議論は、
工場式畜産VS.クリーン・ミートという
対立構造の上に展開し、
残念ながら、ジビエの活用、という選択肢は一切出てこない。
規模から考えれば、致し方ない部分もある。
現在の70億人の地球人口をジビエで支えるのに
必要な狩猟フィールドは
なんと地球3000個にもなるという。
途方もない、非現実的な数字だ。
しかし、人類はそのほとんどの歴史を
狩猟採集民として生きてきたはずだ。
一体全体、問題の本当の核心はどこにあるのだろう。
2050年には100億に達すると予測される世界人口。
その旺盛な食欲を満たすのに、
既存の畜産の規模ややり方では地球が崩壊する、
という見解は、全くもって正しいと思う。
だからクリーン・ミートが必要だと主張する
科学者や投資家たち。
仮に、彼らが想定する世界が実現したとしよう。
100億の人間が飢餓から逃れ、
たらふくクリーン・ミートを食べるのだ。
しかし、その先の未来については、誰も論じていない。
一体その100億の人間は、次に何をするのだろう。
今日の、世界の先進国である日本でさえ、
自分達の年金を確保するために少子化防止を訴える。
人口100億の超高齢化社会を支えるのには
今度はどれだけの人間が必要になるのか。
またしても、肉が、食料が、不足しないのか。
そしてその時、
100億の人間は、きちんと幸せになっているのだろうか。
この世界に生きる喜びを味わうことはできるのだろうか。
最大の課題は、決して肉の供給ではないはずだ。
私自身は、人工的に培養された肉を食べて
生きていきたいとは思えない。
それを食べて、本物の肉を食べた時の力が湧くのだろうか。
そこに、突き上げるような喜びはあるのか。
私は自分で獲った肉を食べる時、
その個体がどう生きていたかを強くイメージしながら食べる。
その行為は、肉体面で栄養を摂取するのと同じ、
あるいはそれ以上に、私の心に作用している。
野生動物の凄まじいばかりの生命力を賛美し、
それを受け継いだものとして
責任を持って生きる、と毎度決意を新たにする。
私にとっては、山で獲った野生の肉こそ、
本当に美しい、本物の肉、
つまりは真の「クリーン・ミート」なのだ。
時代の趨勢に対しては
実質、全くと言っていいほど効果は無いかもしれないが
私は、少しでも多くの人が
自分や家族の食べる獲物を自分で獲り、
その過程で知った彼らの強さと美しさ、
そして喜びも悲しみも含め、
肉を食べて暮らしていく社会を実現させるべく
力を尽くしていきたいと考えている。
歴史上、斬新な発想や技術は常に懐疑的に見られ、
それを笑う者は、後世の笑い者となってきた。
天動説然り、進化論然り。
クリーン・ミートを普及させたい、と考えている人たちも
そこに情熱を燃やし、人生を賭けている人も多いはずだ。
そして、今の流れと勢いで技術革新と資金流入が続けば
いずれ彼らの思い描く未来が訪れるかもしれない。
少なくとも、クリーン・ミートが市場に出回るのは
そう遠いことはないと、私自身も感じている。
やがて、細胞培養の醸造器が一般家庭に
当たり前のように置かれるようになり、
食肉用の家畜が消える日が本当に来るのかもしれない。
その時。
クリーン・ミートの哄笑が
世界に響き渡るのだろうか。
「果てしなく増え続ける我らは不死身となり、
死ぬのは我が身の一部を与えてやっている人間の方だ。
人間は我らを繁栄させるために尽くし、
家畜と主人の立場は今や逆転したのだ」と。
参考文献:
・「CLEAN MEAT 培養肉が世界を変える」
ポール・シャピロ著/ユヴァル・ノア・ハラリ序文
・「現代思想」 2022年6月号 肉食主義を考える
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