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熊五郎と俺 〜すれ違い〜




「脳ミソから血が出るまで考えろ!」

以前、職場の先輩から言われた言葉だ。

狩猟は私の職業ではないが、

きっと今がその時に違いない。



ありったけの想像力と

断片的な記憶のカケラを総動員し、

熊五郎の動きを

必死にシミュレーションする。



最初は、歩きやすい林道を一定速で移動していた。

そこから、かなり急な斜面を登り始めた。

多分、その先には、

ヤマブドウなのかドングリなのか

彼が必要とする食べものがある筈だ。

その場所は私には分からないので

この時点で熟考を重ねてもあまり意味はない。

では食べ終わった後、熊五郎はどうするだろうか。

ヤマブドウもドングリも、今年は不作と言われている。

一箇所で腹一杯にはならないだろう。

だとすると、次のポイントに移動するはずだ。

その移動経路に、彼はどのルートを選ぶのだろう。



熊五郎が登った斜面の先、

獣道は、当然ながらいくつも枝分かれしている。

私が全ての獣道を歩いたわけではないし、

見つけていないものも多数あるはずだ。

しかし、メインの獣道は尾根に乗っている。

そこから次の谷に降りることもできるし、

更に遠くまで尾根筋を伝っていくこともできる。

林道側とは反対の斜面を降りて、

隣の山に行くこともできるだろう。

しかし、そこに入られては

もう私の足では追いつくことはできない。

私に運が無かった、ということだ。

熊五郎は、再びこの林道に降りる、

という可能性に賭けるしかない。

だとすると、問題は、どこで降りてくるかだ。



尾根筋から山奥に向かって最初にある谷は、

狭くて藪も濃い。

そこを超えたもう一つの谷筋は開けていて

日当たりが良い。

木の実がなるなら、日当たりの良い斜面かもしれないが、

そうした場所はシーズン初めに実りの時期を迎え、

この時期なら逆に日当たりの悪い場所の木の実が

ようやく実る頃合いである可能性もある。



一つ目の谷と二つ目の谷は

そんなに距離は離れていない。

ヒグマの気持ちになって考えると、

その間に一度林道に降りて

再び尾根筋に登る必要性はないように感じた。



二つ目の谷は見晴らしが良く、

じっと待ち伏せしていれば

こちらがいち早く熊五郎を見つけることができるかもしれない。

色々と悩んだ結果、二つ目の谷に先回りし、

待ち伏せすることに決めた。



可能な限り、静かに、足早に歩く。

音を立てては気付かれる。

かといって、あまりゆっくり歩いては

熊五郎に先を越されるかもしれない。

いや、既に熊五郎は

私の遥か先を行っている可能性もある。



一つ目の谷に差し掛かる。

足跡は林道にまだ降りていない。

地図に描かれた等高線のように

林道は深くえぐれたヘアピンカーブを描いている。

そこでは、歩いているのと反対側の尾根筋から丸見えになってしまう。

熊がその尾根筋にいないことを祈りながら

更に速度を上げ、走るように通過する。



ようやく辿り着いた二つ目の谷。

そこまで、林道に熊の足跡はなかった。

私は先回りできたのだろうか。

早速、見晴らしが良いのと同時に

身を隠すことのできるポイントを探す。

ちょうどいいポジションに大木があった。

根が長く伸びていて、

腰掛けるのにうってつけだ。

ここに座って、数分おきにそっと林道の様子を窺おう。

私の存在に気が付かずに

真っ直ぐに歩いてくる熊五郎の姿が目に浮かぶ。

どこまで引きつけて撃つか。

何度も銃を構えてスコープを覗いてみる。

準備は万端だ。

いつでも来い。





ところが、そこで強烈な眠気が襲ってきた。



普通に会社勤めをしている私は

猟の前夜だからといってそんなに早くは寝られず、

当日は暗いうちに起きて家を出る。

睡眠時間は3時間を切っていることが多い。

この猟期はしばしば、山で寝ていた。

倒木や切り株に腰掛けてウトウトする時もあれば、

日当たりの良いところにブルーシートを敷き、

1時間以上、本格的に熟睡した事もある。

もちろん、銃はすぐに手に取れる場所に置いてある。



眠いのを我慢して歩き続けることで

ヒットする獲物もいるかもしれない。

しかし、集中力の切れた状態が続けば

色々なフィールドサインを見落としたり、

足を滑らせて滑落する、といったリスクも出てくる。



睡眠、食事にトイレ、

山の中であっても普段通りの自然体でいることは

意外に大事なことのように感じている。

特に、ヒグマは頭が良く感受性が高い。

ハンターが山に入っていることは当然気付いているとして、

私が無理を押して必死になっている、

という兆候を感じると、

一気に警戒心が高める結果になってしまう気がしていた。



ブドウやドングリで一時的に腹を満たしたヒグマも

昼寝くらいはするのではないか。

そうした同調も、熊撃ちには必要にも思えるし、

実際、浅い眠りは気配を消すのに有効とも言える。

張り出した根に腰掛け、太い幹にもたれかかり、

銃を抱えたまま、うつらうつらしながらその時を待つ。

私が放出している殺気も、

眠気に淡く包まれていくのを感じていた。



山の中で寝るときは

多少の音や違和感でもすぐに目が覚める。

はっとして起きて覚醒し、

風景の中に何か変化がないかを入念に確認する。

曲がり角の向こうから

微かに雪を踏む音が聞こえてきてはいないか

耳を澄ませる。

そしてしばらくすると、また緩やかに微睡む。



2時間以上、そうしていただろうか。

いくら熊五郎が昼寝をして、ゆっくり歩いたとしても

さすがにもうこの地点は通過しているはずだ。

天候が変わり、厚い雲が空を覆い、気温も落ちてきた。

体が芯から冷え切っている。

待ち伏せ作戦は失敗に終わった。



落胆したが、すぐに山を降りる気にもなれず、

一旦、林道を一番奥まで歩いて

更なる熊の痕跡を探す事にした。



歩き始めてすぐ。

足が止まった。

目の前にあったのは、間違いなく熊五郎の足跡だった。



完全に私の裏をかき、

ピンポイントで迂回していったのだ。

熊五郎のあまりの見事さと、

自分の間抜けさ加減に

笑いさえ込み上げてきた。



半ば眠りながらも、

林道に何かが出てきたら見逃してはいないと

自分では思っていた。

しかし熊五郎は遥か上をいっていた。

もしかすると、私を覗く事もしなかったかもしれない。

嗅覚だけで、見えない私を察知し

大きな谷ひとつ分を迂回したのだろうと思った。

人間が目でものを見るように

熊は嗅覚だけで立体的な世界を脳内に構築できるのだろう。

ますます熊が羨ましくなった。



しつこく追跡を再開する。

しばらく真っ直ぐに林道を辿っていた足跡が

不意に立ち止まり、斜面の下を覗き込んでいた。

そこはまさに、

ひと月近く前に私が鹿を解体したポイントだった。



この嗅覚。

人間がどう足掻いても、絶対に敵わない。

心地良い敗北感。



その後、熊五郎の足跡は雪の積もっていない森の中に入り、

私は再び、熊五郎を完全に見失った。





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