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虹の麓で待ち合わせ










妻と僕の間には、子どもはいない。

でも、ぶぅ太がいた。

フレンチブルドッグのオスで、

僕と出会う前から妻が飼っていた。



妻はぶぅ太に対し、

自分のことを「おかしゃん」と言っていた。

僕と一緒に暮らすようになってからは

僕のことを「おとしゃん」と呼ぶようになった。

あくまでも、ぶぅ太の前でだけの話だが。

正直、最初は甘ったるすぎて抵抗があった。

でも、慣れてしまった。

やがては僕自身も

「ぶっちゃん、おとしゃんと散歩に行こう」などと、

以前では信じられないようなことを

口走るようになった。



可愛くてたまらない。

溺愛という言葉も軽く感じる。

人間ではないが、僕らの息子。



毎晩一緒に寝ていた。

僕の脇の下に突き刺さるように入り込み、

肩に顎を乗せるのが定位置だった。



でも、今は庭先で寝ている。

リビングの、南向きの大窓の目の前。

僕が昨日掘った穴の底で。









失って初めて分かるものがある、

なんてことは

ずっと前から知っていた。



ぶぅ太が自分よりも先に逝く、

ということも当然だと思っていた。


全部全部、分かっていたつもりだった。








要求が控えめで

自己主張しない犬だった。

トイレは外でするのだが、

催すとそっと立ち上がり、

玄関のドアの前で黙って立っていた。

おもちゃで遊びたいときには。

引き出しに鼻を突きつけたまま

不動の姿勢だった。

食べたいときや飲みたいときには

直立不動のまま

器の前で待っていた。



アトピーの症状があり、

食べられるドッグフードは決まっていた。

友人の家の犬は、

同じものばかり食べていると飽きてしまって

食が細くなったり

ひどいと何日も食事をボイコットしたりしていたが

ぶぅ太は違った。

毎日二回、

同じ銘柄のドッグフードを待ち焦がれていた。

器を置き、伏せをさせ、

「待てよ〜、待てよ〜」と言っていると

鼻息が荒くなる。

「ヨシ!」と言うと同時に

「バウッ!」と一声あげ

全力で駆け寄ってむしゃぶりついた。



常に弱いものに寄り添う犬だった。

夫婦で言い争いになると、

決まって形勢が不利な側の膝に乗ってくる。

勢いづいて正論を述べる方を上目づかいで眺め、

「もうやめてあげてください」

と無言で訴える。

要するに大概の場合、

ぶぅ太は僕の膝に乗っていた。



邪念が一切ない犬だった。

朝から外出して夜も飲み歩き、

ずっとひとりぼっちにした日も、

拗ねることはなかった。

後ろめたい気持ちで深夜に帰宅しても、

そっとドアを開けると同時に

全力で駆け寄ってきて

喜びを爆発させた。



クリーム色の毛をまとった天使。

僕らの人生に舞い降りた奇跡。









歯茎が腫れやすく、

4年前に腫瘍を切除した。

その後再び歯茎は肥大し、

今年に入って

奥歯が歯肉に埋まるほどになった。



手術には全身麻酔が必要で

危険性もあるとのことだったが、

10歳の今なら体力もあり元気だ。

僕らはぶぅ太を病院に連れて行った。

たかが歯茎の手術だと

軽く見ていた。



腫瘍は取り除かれたが

麻酔からなかなか醒めず、

起きると同時に嘔吐した。



家に連れて帰り、

いつもより大人しくはあったが

普通にエサも食べていた。



様子がおかしくなったのは

翌日からだった。

夜中、嘔吐を繰り返した。



膵臓から分泌される消化液が増加していて

膵炎の可能性があると診断された。

絶食させる必要があるとのことだった。

嘔吐により

大量の水分と電解質が失われるため

皮下点滴の処置をした。



それから毎日病院に通った。

ぶぅ太の容態は一進一退だった。



1週間が経ち、

そのほとんどの間、

ぶぅ太は絶食させていた。

わずかにブドウ糖を

時間をおいて1度に2CC、3CCと舐めさせていた。

すぐに元気になるだろうと楽観視していた僕も

さすがに心配になってきた。



妻が色々と調べてみたところ、

皮下点滴より効果が高いのは

静脈点滴らしいということが分かった。

しかも静脈点滴なら

栄養分も入れられるという。

それには入院が必要だった。



3月24日の午前9時。

妻がぶぅ太を入院させた。

早速、静脈点滴が開始された。


病院から電話があったのは

その日の午後2時前だった。

「容態が急変したので、

すぐに病院に来てください」



妻は不安に怯え、

僕は事故を起こさないことだけに集中して

急いで車を走らせた。



病院に駆けつけると

看護師がすぐに奥の治療室に案内してくれた。



信じられない光景だった。

ぶぅ太は横倒れになり、

硬直した脚に点滴の針を刺され、

口からはチューブが伸び、

医師が体重をかけて心臓マッサージをしていた。



目は見開いたままでまばたきもせず、

正気のない色をした舌が

ベロンと長く伸びていた。

しばらくして僕は

心臓マッサージをやめて

全てのチューブを外してもらうよう、

医師にお願いした。

妻によると

14時50分のことだったらしい。












まだ温かいぶぅ太。

寝ているようにしか見えないぶぅ太。

その日の朝は

川沿いを50メートルほど歩き、

色々な匂いを嗅いで周り、

少量だがちゃんとおしっこもしていたぶぅ太。

でも息はしていない。

助手席に乗せ、

撫でながら帰宅した。

手触りだけで言えば

毛は柔らかく皮膚は温かく、

生きている時と全く変わらなかった。



家に着くと

お気に入りだったクッションにぶぅ太を寝かせ、

大好きだったササミとブロッコリを茹で、

同じく大好物のサツマイモを薪ストーブで焼き、

花を買ってきて

ぶぅ太の周りに供えた。



眺めているだけでは切なくて

妻と代わる代わる胸に抱いた。

妻の嘆きは目も当てられなかった。

仔犬のときから

我が子と思って育て上げてきたのだ。

どれだけ泣いても

涙が枯れることはなかった。



泣きすぎると頭の中の圧力が変化するのか

激しい頭痛に襲われた。

それでも僕らは泣き続けた。

僕はなぜか鼻血が出てしまったが

そもそも目も鼻もグシャグシャだったので

全く気づかなかった。

ぶぅ太の頭にかかってしまった血を

妻が慌てて拭い、

綺麗にしてくれた。



すぐそばに二人で布団を敷いて寝た。

息子と過ごす最後の夜。

結局ぶぅ太をクッションから布団に移した。

妻が抱きしめ

僕が頭を撫でながら寝落ちした。









翌朝。

ぶぅ太の体はようやく冷たくなっていた。

遺体が腐敗してゆく様を見たくなかったので、

その日のうちに埋めようと決めていた。

だから夜が明けてほしくなかった。

たとえ冷たくても

まだ体はここにある。

このままずっと一緒に寝ていたかった。



どんな日でも、

何があっても、

いつも通りに太陽は昇る。

こんなにありがたいことはないのだが、

その日に限っては

限りなく残酷なことに思えてしまった。

気温も上がってくる。

ぶぅ太のお腹が膨れてきている。

僕は庭に穴を掘る準備を始めた。



リビングの目の前に生えている

ユキヤナギを何本か切る。

そこにスコップを突き立てる。

なんとか根を取り去ったが、

その下の地面が凍っていた。

スコップでは歯が立たない。



ホームセンターにツルハシを買いに行く。

一番重く、頑丈そうなものを選ぶ。

我が子の墓を掘るためのツルハシを買うのは、

苦痛以外の何ものでもなかった。



ツルハシは凍結した地面に

難なく刺さる。

作業がはかどる。

複雑な気持ちだが

綺麗に穴を掘り進めることだけを

考えるように心がけた。

1時間ほどで

穴は掘り上がってしまった。



どんな場所で眠りにつくのか。

穴の底に座ってみる。

静かでほんのり暖かく、

顔を上げればリビングの中の食卓が見える。

悪くない。

これならぶぅ太も寂しくないだろう。

妻を呼んで同じように座ってもらう。

和らいだ表情から

納得がいったことを知る。

安心した。



次はもう埋葬だ。

しかしぶぅ太にずっと寄り添い、

話しかけ、

抱きしめていた妻は

彼を離そうとしない。

当然だ。



「ねえ、生きてるみたい」

「だね、寝てるだけだね。

 今にもいびきが聞こえてきそう」

真っ赤に泣き腫らした目のままで笑い合う。



妻からぶぅ太を譲り受けて抱き上げる。

重さを感じられる。

頬擦りもキスもできる。

本当にこの子を埋めるのか。


二人とも

幼児のように大声をあげて泣く。

何らかの理由が必要だ。

そうでないと永遠に埋められない。








正午になった。

1メートル近く掘った穴の底まで

太陽の光が差し込んでいる。

ぶぅ太は日向ぼっこが大好きだった。

「光の中で、暖かさの中で埋めてあげよう」

と妻に言った。

彼女も頷いてくれた。



妻が長年愛用してきた

シルクの大判スカーフにぶぅ太を包む。

穴の底にそっと横たえる。

鼻先には

昨日供えた好物に加え、

鹿肉や熊肉も置いてあげる。

花で全身を飾る。



手でほぐしながら土をかける。

日光を吸収した土は温かい。

肥えた土でミミズの姿もある。

ぶぅ太も気に入ってくれるに違いない。



少しずつ、少しずつ。

掘り返して抱きしめたくなる気持ちを

必死で抑えながら、

土を被せる。

だんだんぶぅ太が見えなくなってゆくのは

溢れる涙で視界が霞んでいるからでもある。



掘った土を全て埋め戻した。

表面には、

妻が集めていた丸くて可愛らしい小石を

敷き詰めた。

ぶぅ太と海岸で拾ってきた

思い出の石だという。



日が傾いてきた。

とても素敵な墓が出来上がった。

でもぶぅ太の姿がない。

直接触れることもできない。

作業中はまだ気が紛れていたのだろうか。

全てが空虚に感じ、

自分の体重が感じられない。

ストーブにあたっても

いつも横にいるぶぅ太がいなくては

温まった気がしない。

「二人きりになっちゃったね」

妻と泣いた。













父を看取ったときも

母が旅立ったときも

感謝や尊敬はあれども

後悔や自責の念はあまりなかった。



悲しみの中にも希望を

辛さの中にも学びを

いつも見出すようにしてきた。

でも今はなぜか

後悔の念が止まらないでいる。



もっと早く静脈点滴をしていれば。

たかが歯茎の手術と

舐めてかかっていなければ。



後悔はどんどん時を遡る。



絶食が必要と言われていたが

ぶぅ太は食べたがっていた。

残された力を振り絞り

じっと器の前で立っていた夜。

流動食をひと舐めでもさせてやればよかった。



水を飲むと吐いてしまう。

吐くのが一番いけない、

体力も低下し

電解質も失われると説明されていた。

でもぶぅ太は喉が乾いていた。

風呂に入れられるのが大嫌いで

決して浴室には近付かなかったのに

よろよろと洗い場に入り、

排水溝の匂いを嗅ぎ、

舌を伸ばそうとした。

「ダメだよ」

と抱っこして出した。

でも今、

自分が死にそうで水が飲みたいときに、

それを止められたら

どんな気持ちになるかを考えると

胸が張り裂けそうになる。



ほんの1週間前は、

まだ元気に散歩をしていた。

でも歩きたがるぶぅ太を

「もう戻るぞ」

とたしなめて家に連れて帰っていた。

色々と忙しかったのは確かだ

だけど、

こんなことになると分かっていたら

全てを投げ打ってどこまでも歩いていたのに。



原稿を書いているとき

「おとしゃん、遊んでください」

とせがんでくることもよくあった。

手を止めて遊ぶこともあったが

「今は手が離せないんだから静かにしなさい」

と言い聞かせた。

そのときの自分を

殴り倒したい気分だ。



一番後悔しているのが

たまにやらかす夫婦喧嘩だ。

僕らの幸せを

心から願っていたぶぅ太。

議論が白熱し、

語調が荒くなってくると、

ぶぅ太はブルブルと震え始める。

もともと腰が悪く、

以前は二階に上がれたのだが

今はもう無理だ。

でも一階にいるのが苦痛なのだろう。

階段の途中まで上がってじっとしている。

それでも喧嘩を止められなかった。

僕らが笑い合っていること。

それだけが自己主張をしない彼の

唯一の望みだったのに。









自分の文章に

できる限りオリジナリティを持たせたいのは

表現者なら誰しもが思うことだ。



でも、

陳腐と言われてもいい。

どこからかコピペしてきたのではないかと

思われても構わない。

それでも当たり前のことを書きたい。

というより、

これは今の僕の心から溢れてくる

世界中の人々へのお願いだ。









当たり前のことを

当たり前と思わないでください。



目の前の小さな幸せを、

日々のささやかな喜びを、

当たり前と思わないでください。

それはすべて奇跡のように尊いことです。



どうか

あなたのすぐそばにいる人を大切に。

思い切り感謝と愛を注いでください。

ある日それは、

いきなり消えてしまうかもしれないから。



明日が大切な人の最後の日と知ったら、

あなたは何をしますか?



今日が自分の最後の日だと思ったら

あなたはどう過ごしますか?



その日は

生きとし生きるものすべてに

平等に訪れます。



だから悔いの残らないように、

毎日を精一杯、

生ききってください。













虹の橋を渡ったぶぅ太。

思っていたより

随分早く行ってしまったね。



いつか必ず

僕も渡るのだから、

そのときはきっと待っていてね。



いつもみたいに全力で飛びついてきて、

鼻水とよだれを撒き散らしながら

ベロベロ顔を舐めてね。



その喜びを考えると、

死ぬのもあながち悪くはないと思えるよ。



ぶぅ太、

お前みたいな犬はいない。



ぶぅ太、

お前は僕とマリの最愛の息子で

僕らの喜びそのもの。


いつまでもいつまでも

何も変わらないよ。



どんなに感謝しても

感謝しきれない。

本当に本当に、

ありがとう。



愛しい子。



可愛い子。

虹の麓での待ち合わせ。

おとしゃんと

おかしゃんとの

約束だからね。















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