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獣の姿をした大きな愛






9月に入ると、

カナダ・ユーコンの先住民は皆、勇み立つ。

仕事は手につかず、打ち合わせをしていても上の空。

心は原野を駆け巡り、いてもたってもいられない。

結局、多くの人が長期の休暇をとる。

今年もヘラジカ猟の季節が到来したのだ。



2024年、10回目のユーコン訪問は

まさにそんな時期の真っ只中だった。

どこでヘラジカを見ただの、

誰が早くも1頭仕留めただの、

男たちの会話はヘラジカ一色となる。



しかし僕の師匠である

タギッシュ/クリンギット族のキースが

ヘラジカにかける情熱と労力は

他の人たちと一線を画する。

多くのハンターがトラックを走らせ

沿道からヘラジカを探すが、

キースは通常の四輪駆動車ではアプローチ不可能な

山の深部に分け入り、

獲れるまでは何日でも野宿をしながら粘る。



これまで何度もそうした猟に同行させてもらってきたが、

今回は、僕が体験した中では

最も過酷な猟となった。

雨に濡れ、雪に凍えながら

遂に1頭のヘラジカを授かるまでの6日間。

僕らは狩猟採集民としての想いと覚悟を分かち合う

濃密な時間を共にしたのだった。








【初日 9月17日】



今回のヘラジカ猟のメンバーは4人。

キースと、奥さんのドナ、

義理の息子であるブランドン、そして僕だ。



使う車両は、

日本では見かけることのない8輪駆動車が2台。

キースが1台、ブランドンがもう1台を運転する。

砲台のない小型の戦車のようなオープンカー、

という表現が最も適当だろうか。

乗り心地は決して良いとは言えない。

通常の自動車は

ハンドルを切ると前輪だけ角度が変わるが、

車体の左右に

タイヤが4つずつ縦に並んでいる8輪駆動車では

そうはいかない。

右に曲がる時は右側4輪の速度が落ち、

左側4輪の速度が上がることで方向を変える。

だからハンドルを切るたびに

結構なショックを感じる。

詳しいメカニズムは僕には分からないが

衝撃を吸収するサスペンションも多分存在しない。

車体は地面の凹凸を直に拾い、

脳が揺さぶられる。

転げ落ちないように必死に手すりを掴むが

握力はすぐに低下してしまう。

乗っているだけで大変な車両だが、

その走破性能は凄まじい。

岩だらけの川原や、

道のついていない潅木帯も問題なく突破するし、

川や湖に出れば水に浮かんで航行もできる水陸両用車だ。



キースが運転する車両はトレーラーを牽引する。

2台分の後部座席とトレーラーに、

キャンプ道具と食料、

スコップに斧にチェンソーなどを積み込む。

ヘラジカがいつ獲れるかは

ベテランのキースをしても予想は不可能だ。

運が良ければ山に入った初日に獲れて

日帰りで戻ってくることもあるが、

1週間以上獲れないこともあり得る。

食料はクーラーボックス3つ分、

ビールは念の為に80本を準備した。



泥を跳ね上げ、岩を乗り越え、

倒木が進路を塞げばチェンソーで切り、

邪魔で気になる木の根は

斧を振るってスコップで掘り出す。

僕には軍隊経験はないが

行軍とはきっとこんな感じなのだろうか。



標高が上がるにつれ

広葉樹は少なくなり針葉樹が増えてくる。

2時間ほどでベースキャンプ設営地点に到着した。

トウヒの木立が風を遮り、

近くに水場もある

キースのお気に入りの一角だ。

5年前のヘラジカ猟の時にも、ここで3泊した。

前と違うのは、

枝にヘラジカの古びた角がかけてあり

そこにマジックでWolfe Smarch Campと書いてあるところ。

Wolfe Smarchはキースの名字だ。





キースはすぐにトウヒの幹の間にロープを張り、

そこにタープをかけた。

枝を切って斧で先端を尖らせて作った杭を

周囲に打ち込み、

タープの四隅を固定する。

即席の屋根が出来上がった。

地面にブルーシートを敷き

その上にマットと寝袋を広げ、

あっという間に寝床が完成した。

キースとドナとブランドンはそこで寝る。





僕は10メートルほど離れたところに

20年以上愛用しているテントを張った。

小型のテントにフライシートをかければ風雨は防げるし

体温だけでも室内は少し暖かくなる。

9月とはいえ、

北緯60度、標高1000メートルを超える

山の夜は寒い。

風邪をひくわけにはいかないし、

体力の消耗も防ぎたい僕にとって

テントで寝ることは体調管理の一環だ。





野営の準備ができるや否や、

8輪駆動車でヘラジカを探しに出るが

すぐに暗くなってしまう。




夕食は巨大ソーセージを焚き火で焼いたホットドッグ。

ビールで流し込む

熱々のキャンプ飯に敵う贅沢はない。






【2日目 9月18日】



朝食は焚き火にフライパンを乗せてのベーコンエッグ。

カナダではキャンプ用なのか、

牛乳パックと同じような容器に

卵の中身だけが入ったものが売られている。

運搬の衝撃で殻が割れてしまう心配がない優れものだが、

黄身と白身が混ざっているために目玉焼きはできない。

卵料理は必然的にスクランブルエッグやオムレツとなる。



この日は4人全員が

1台の8輪駆動車に乗り込んだ。

エンジン音が1台分なので

多少なりともヘラジカの警戒心を刺激しないための配慮だ。

ヘラジカが獲れた時のことを想定し、

トレーラーも牽引する。



北海道の真冬の装備を着込むが

手足の先は痛いほどに冷えてくる。

見晴らしの良い頂上から

広範囲を双眼鏡でくまなくチェックするが

頂上は風がもろに当たる。

真っ直ぐに立っていられないほどの風が吹きつけてくると

8輪駆動車の陰に身を隠す。



キースが鼻に手を当て

「ンヲーーーン」とくぐもった声を上げる。

発情した雌のヘラジカの声を真似して

雄をおびき寄せているのだ。

何の道具も使わない単純極まりない作戦だが、

これが絶大な効果を上げることは

今までの経験が証明している。

僕も同じように鳴き真似をしようとすると、

慌ててキースに止められた。

鳴き真似をするのは一回に一人と決まっているそうだ。

人が変われば声も異なる。

複数の鳴き真似が入り混じってしまうと

ヘラジカに何かがおかしいと勘付かれてしまい

うまく騙すことができないそうだ。



ブランドンがようやく1頭のヘラジカを見つけるが

残念ながら雌だった。

キースはヘラジカの雌は撃たない主義なので

苦労して見つけた獲物だが見送ることとなった。



昼食は木々の中に入り、

焚き火をしながら食べる。

火起こし係はブランドンだ。

若いが作業は的確で、

あっという間にバチバチと木々が燃え出す。

皆で火にあたりながらハムやチーズをパンに挟んで食べる。

食べ終わったブランドンはそのまま地面に寝そべると、

数秒後には気持ち良さそうにいびきをかき始めた。

火のそばとは言え、

冷たい地面は容赦なく体温を奪っているはずだ。

そういえば朝も、

寝袋から半袖の腕がはみ出たままで寝ていた。

ヘラジカ同様、寒さを殆ど感じないのだろう。

寒がりの僕としては羨ましい限りだ。


午後遅くまでヘラジカを探すが見つからず、

この日の猟は終了した。


キャンプに戻る途中、

立ち枯れした木をチェンソーで倒す。

今夜の薪を作るのだ。

倒れている枯れ木は中が湿っていて使えないので

立ったまま枯れている必要がある。

倒した木を4、50センチに切り分け、

トレーラーに積みこむ。

キャンプに戻った後、それらを斧で割るのは僕の役目。

それなりに重労働ではあるが体は温まるし、

綺麗に割れた時は気分が良いので苦にはならない。



彼らは盛大に火を焚くのが好きだ。

まずは濡れた手袋や靴下を乾かし、

熾火になったら料理をし、

食後はビールを飲みながらまた火力を上げる。

必要以上に火は大きくなるが、

彼らは更に薪を投げ込む。

朝食に使う分だけを残し、

作ったばかりの大量の薪は全て燃え尽きる。

節約して使えば3日はもつのに勿体無い、

と感じてしまうのは日本人的思考なのだろうか。

翌日にまた枯れ木を切り倒し

薪を作る苦労を厭わず、

彼らは大笑いしながら、その日の夜を楽しむ。



夕食は茹でた芋を付け合わせに

ステーキほどのサイズの大きくて分厚いハムを焼いた。

夜が更け、満腹で酔いが回る。

真っ暗な森にキースが最後のヘラジカの鳴き真似を響かせ、

皆眠りについた。








【3日目 9月19日】


朝一番、キャンプから5分ほど斜面を下った場所で

沢の水を汲むのは僕の役目だ。

わずかに残っている熾火を使って火を起こし、

鍋で湯を沸かす。

皆があくびをしながら寝袋から這い出てくる。



沸騰したお湯で

コーヒーを淹れようとしたところで、

キースが

「静かに!ヘラジカだ」

とささやいた。

雄の鳴き声を聞きつけたらしい。

皆に緊張が走る。



今回、ヘラジカを撃つのは奥さんのドナと決まっていた。

すぐにドナがライフルを準備し、

僕らは双眼鏡でヘラジカを探す。

キースが雌の鳴き真似をすると、

木々の奥から

「ンォフッ、ンォフッ」

という微かな声が聞こえてきた。

間違いなくヘラジカの雄だ。

朝の雑事をしながらも

耳を澄ませないと聞こえない程度の鳴き声を聞きつける

キースの聴力は驚嘆に値する。



続いてキースは

木に立てかけてある枯れた丸太を

乾燥した枯れ枝で激しく擦るように叩き始めた。

雄同士が角を突き合わせて

激しく闘っている音を再現しているのだ。

ライバルが立てる物音に釣られて

様子を見にくる雄も多いという。



一旦近付いてきた雄の鳴き声が

徐々に遠ざかる。

20分ほどして

500メートルほど先に

巨大な白い角が揺れているのに気づいた。

その後、歩いている全身も見られたが

結局そのオスは立ち去ってしまった。

発情がまだピークに達していないとキースは言う。






雨が降り、雪もちらつく中、

この日も8輪駆動車を走らせる。

雪は払えば落ちるが、雨は辛い。

勢いが強くなると、雨合羽は着ていても

フードや襟元、袖口などからじわじわと濡れてきて

体温が奪われる。

ヘラジカをはじめとする野生動物は、

この寒さの中でずぶ濡れになりながら

どうやって生命を維持しているのだろうか。

ヘラジカのような大きい動物はまだいいとして、

小さな鳥たちはどうだろう。

昼間にはまだ飛び回っている蛾も見かける。

雨に濡れても消えることのない小さな命の炎。

その強さとしたたかさに想いを馳せる。



終日、雨と雪の洗礼を受けた1日ではあったが、

山の頂上に出た瞬間、

しばらくの間だけ雲が消え、陽光が降り注いだ。

あまりの美しさに息を呑む。

地平線の彼方まで、人工物は一切無い。

見渡す限り、ただ原始の自然が広がるだけだ。

英語で“Middle of nowhere”という言葉がある。

「どこでもない場所のど真ん中」、

辺境の中の辺境といった意味だ。

まさにここは“Middle of nowhere”。

人間界のしがらみから解き放たれ

限りない自由を掴んだような喜びが突き上がる。

青い空、白い雪、灰色の岩肌。

深い青色の水を湛えた湖に

多様な色彩に溢れた晩秋の森。

“Middle of nowhere”には、

生きとし生けるものが命を繋ぐために必要な

全てが揃っている。

大いなるものの存在を最も身近に感じられる場所。

ヘラジカもヒグマもオオカミも

同じ空気を吸い、同じ水を飲み、

同じ大地の上で、同じ時代を生きている。

苦労してここまで足を運び、

ようやくリアルに感じることができる

母なる自然とのつながり。

心が、愛と感謝で満たされる。

ここから見える全ては

大いなるものの愛が体現化されたものだ。

それが感謝という心の網膜に映し出されている。

この星に生まれた全ての存在には明確な意義があり、

きちんと居場所が用意されている。

それぞれが他者を尊重しながら、

自分だけの利益を追求することなく

謙虚に暮らす。

雄大な風景は、調和の美というものを感じさせてくれる。

全ての存在が愛を発信し、

受け取る側に生まれるのは感謝だ。

愛と感謝。

それ以上に大切なものがあるだろうか。

それ以外に必要なものがあるだろうか。



夕食はヘラジカの肉の炒め煮。

首やスネなどの

旨みは強いが硬めの肉をフライパンで炒め、

そのまま少量の水を入れて煮込む。

柔らかくなった頃を見計らって食べると絶品だ。

全ての苦労は、この極上肉を来年も食べる為にある。






【4日目 9月20日】



朝、テントから出ようとすると

フライシートがバリバリに凍っていた。

外は一面に真っ白な霜が降りている。

さすがのキースたちも寒いのか、

皆なかなか起き出そうとしない。



火を起こし、ゆっくりと朝食を食べ、

出発は昼過ぎとなった。

前日にトレーラーのタイヤがパンクしてしまった為

この日は8輪駆動車2台で出動する。



いつもの見晴らしポイントに登る。

谷を挟んだ斜面の奥に

小さく蠢く黒い影を見つけた。

ヘラジカだ。

よく見ると雌だった。

今回の狩猟対象ではない。

でも雌がいるということは、

そばに雄がついていてもおかしくない。

双眼鏡を動かさずにひたすら見ていると

数十メートル右手に白い角が動いているのに気付いた。

間違えようもない、ヘラジカの雄だ。

皆に知らせ、しばらく観察しながら作戦を考える。

すると更にもう1頭、メスが姿を現した。

3頭のヘラジカ集団。

これなら接近しても、単独のオスより見つけやすい。

山を迂回しながら谷に降り、

その斜面にアタックをかけることとした。



ブランドンの8輪駆動車を谷筋の奥に隠し、

キースの車両に全員が乗りこむ。

この周辺にターゲットはいるはずだ。

キースが斜面に突入した。

足跡やヤナギの枝先を食べた跡など

わずかな痕跡を頼りに走り回るキース。

草木を薙ぎ倒しながら、

「ンォフッ、ンォフッ」と

今度は大声で雄の鳴き真似をしている。

まるで血気盛んなヘラジカの雄が

乗り移ったかのようだ。

急峻な坂にさすがの8輪駆動車もタイヤを空転させ

右に左に、時には後ろに

車両ごとひっくり返りそうになる。

8輪駆動車の乗り心地の荒さや

走破性能の凄まじさは分かっているつもりだったが、

甘かった。

まるで、嵐の中の小舟。

胃が口から飛び出そうになる、

というのはまさにこのことか。

1時間近く必死に探すが、

僕らが斜面に入る前に危険を感じて立ち去ってしまったのか、

残念ながらヘラジカに出会うことはできなかった。



思うように獲物を得ることができないままに

広い山域を走り回る日々。

燃料と食料が不足してきたため、

誰かが街で物資を補給する必要が出てきた。

パンクしたタイヤを取り替えないと

トレーラーを山から下ろすことができないが、

あいにくスペアタイヤも持ってきていない。

協議の結果、キースとドナが山を降り、

僕とブランドンが残ることとなった。






【5日目 9月21日】



起きると、一面の雪景色となっていた。

雪が音を吸い取り静かだ。

キースがいないので、僕が雌のヘラジカの鳴き真似をする。

しばらく耳を澄ませていたが

雄の反応はなかった。



キース不在の状況に

心細さを感じない訳ではないが、

逆にキースがいない間にヘラジカを仕留めて驚かせたい

という気持ちもある。

ライフルを託されたブランドンは

「栄光を我が手に!」と気合い十分だ。

しかし僕らはキースのように

この山の地形に精通していない。

結局、前の日にヘラジカを求めて走り回った斜面を

見渡せるポイントに行き、

そこでヘラジカを待ち伏せすることにした。



昨日どれだけヘラジカにストレスを与えたかは分からないが、

山には動物が好きな場所というものがある。

ブランドンが雌を見つけたのも、

僕が雌と雄を見つけたのも、同じ斜面だった。

時間は両方とも13時頃。

南向きの斜面に日がよく当たる時間帯だ。

二度あることは三度あるという言葉が

今回に当てはまるかどうかは分からないが、

考えられる選択肢の中で

安全性も確率も最も高いと思われるのが

この待ち伏せ作戦だった。



雪が降る中、歩いて対岸の斜面を登り始める。

ヘラジカを目撃したポイントからは200メートルほど。

ライフルなら十分に射程距離だし、

更に忍び寄って距離を詰めてから発砲してもいい。

胸が高鳴るが焦りは禁物だ。

昨日の敗因が過剰なエンジン音だったと仮定すると、

今日は徹底的に無音に徹したい。

足音を立てないよう、ゆっくりゆっくり移動する。

予定していた場所に到達すると

想像通りに見晴らしは良い。

木の陰に身を潜め、じっと待つ。

体に雪が降り積もり、僕らは白い大地と同化してゆく。

雌の鳴き真似をして、

出てこい、出てこい、と祈る。



しかしそこで、遠くからエンジン音が聞こえてきた。

僕らを心配したキースとドナが

一刻も早く合流しようと戻ってきてくれたのだ。

安心感よりも、

僕ら2人で大物を仕留めることができなかった

悔しさが勝る。

「次回は絶対僕らで獲ろう」と

小声でブランドンと誓い合った。



合流後はまた広範囲にヘラジカを探すが

山の神はまだ微笑んではくれない。

しかし、ビーバーが巣を作っている現場に出会い

しばらく観察することができて

僕にとってはとても楽しい1日となった。



ドナが家にあった麻婆豆腐の素を持って来て、

夕食は僕が担当。

ヘラジカの挽肉をたっぷり入れて豆腐を煮込む。

最初に持ち込んだ80本のビールは

全て飲み尽くしてしまった為

ビールの補給もとても有り難かった。






【6日目 9月22日】



夜の間に雪が降ったが、

朝には久しぶりに気持ち良い晴れ間が広がったこの日。

ドナが「今日はきっといいことがあるわ」と呟く。

ゆっくりと朝御飯を食べ、

11時過ぎに4人で1台の8輪駆動車に乗って出発した。



新雪の地面には足跡がくっきりと残る。

いつもより少しだけスピードを落とし、

木々の間にヘラジカの姿を探すと同時に

地表の足跡にも注意を払う。

すると、前の日に僕らがつけた轍を

上から踏んで歩いている足跡を見つけた。





まだ新しい。

大きさから見て雄で間違い無い。

足跡は山を降りる方向に向かっていた。

いつもの頂上まで出てヘラジカを探すか、

この足跡の主を追跡するか。

キースは後者を選び、車両をUターンさせた。



鬱蒼とした針葉樹の中では

ヘラジカを見つけるのは難しいので、

草地が広がるポイントまで一旦戻る。

エンジンを切り、キースが雌の鳴き真似をする。

しばらく待っても反応はない。

僕らはあたりを歩き回り、痕跡を探すことにした。

手分けをしてしばらく皆で探索する。

ところがうららかな陽光のおかげで気温が上がり、

雪が溶け始めた。

つけたばかりの自分の足跡でさえ

みるみる内に輪郭がぼやける。

これ以上ここで足跡を探しても勝算があるとは思えない。



全員が車両に戻り、どうするかを考えていたその時、

不意に1キロほど先の斜面の上の方で

雄のヘラジカが歩いている姿が目に飛び込んできた。

どうやら僕らはヘラジカを追い越し、

彼より下に出てしまったようだ。

静かに、とジェスチャーで皆に伝え、

ゆっくりとヘラジカを指し示す。

全員が即座に臨戦態勢に入る。

キースが雌の鳴き真似をして、

ドナは早くも射撃の準備を始める。

ヘラジカは速度を変えずに歩き続けているが、

キースの声に反応して進路が少し変わり、

斜面を降り始めたように見えた。

そのまま観察していると、

ジグザグに歩きながらこちらに向かっている。

雄独特の鳴き声も聞こえてきた。

苦節6日目にして掴んだ最大のチャンス。

ドナは座席の背もたれにライフルを固定し

万全の体制だ。

キースはドナの隣に寄り添い

必要な情報を小声で耳打ちしている。

僕とブランドンは車両の後ろに回って身を隠す。






背の低い木々が生える斜面を歩いていたヘラジカは、

その下の針葉樹林に入り、一旦姿を消した。

ヘラジカの気が変わることなく、

そのままの進路を保ってくれていれば、

林を抜けて僕らがいる草地に出てくる。

キースが小さめの声で、最後の鳴き真似をする。

音量を控え目にすることで、

早くアプローチしないと

雌が立ち去ってしまうかもしれないと思わせ、

雄を焦らせるのだ。



ヘラジカが見えなくなってからの数分間。

僕ら4人は皆、心を一つに同じことを祈っていたはずだ。

たまに響くヘラジカの鳴き声が徐々に近付いて来る。

枝を踏みしだく足音も聞こえてきた。

そして木々の間から

白っぽい角が見え隠れし始めた。

距離は100メートルほどで

相変わらずジグザグに歩いている。

体はまだ潅木に隠れていて、

見えているのは角と頭の上部だけだ。

音を立てないように、

ドナがゆっくりとライフルに弾を装填する。

遂にヘラジカが全身を現した。


そこからのヘラジカの行動は不思議だった。

どう考えても、8輪駆動車に身を寄せる僕らは

雌のヘラジカには見えないはずだ。

それでも彼は確実に歩を進める。

盛りのついた雄ならではの盲目的な行動だ。

しきりに舌を出し入れしているのが見える。

発情した雌の匂いを確認するために

上唇を剥き出しにする

フレーメン反応とも関係があるのだろうか。

舌なめずりをしながら、

もはやジグザグに歩くのをやめ、直進してくる。

真正面から獲物を撃つのは難しい。

体を射抜いてしまうと肉や内臓にダメージが激しいため、

的の小さい首の上部や頭を狙う必要がある。

キースは常々、

「獲物が横を向くのを待って心臓を狙え」

と言っている。

ドナもそれが分かっているのか、

射程距離に入って後も

引き金を引く気配はない。


全身を現したヘラジカは、

そこから2分ほどかけて30メートルの距離までやってくると

訝しげに顔を振り、しばらく立ち止まった。

5年前にもキースがヘラジカを射止める瞬間を見たが、

距離はもっと遠かった。

この距離でヘラジカを見るのは

生まれて初めてだ。

威容を誇る、世界最大の鹿が

目の前に立ちはだかる。

動物園と違い、獣と僕らを隔てる檻も溝も存在しない。

真っ直ぐにこちらを見据える小さな眼。

両の手のひらを広げたような形をした巨大な角は

パラボラアンテナのように作用し、

前方から聞こえてくる微細な音をヘラジカの耳に届ける。

きっと僕らの押し殺した息遣いも

彼にははっきりと聞こえていた筈だ。



もうすぐだ。

あとほんの少ししたら

僕らは彼の命をいただくだろう。

しかし強烈な生命力を放っている彼を前に、

それは非現実的で、何か遠い次元の出来事にも感じられる。

彼の生涯を強制的に終焉させる僕らの行為は

果たして残虐なものなのだろうか。

そして我が身を僕らに授け

永遠なる輪廻の世界へと旅立つ彼は

果たして哀れな存在なのだろうか。

命をいただく者と、差し出す者。

いつ訪れるか予想はできないが、

誰もが避けられない死の平等性を前にして、

ヘラジカを射止める僕らが勝者という訳ではなく、

銃弾に倒れる彼が敗者ということでもない。

生の喜びがあるように

死にも安堵と喜びを見出すことはできないものだろうか。

死の苦しみもあるだろうが、

生の苦しみも同様に存在するのではないだろうか。

様々な想いが交錯する。

張り詰めてはいるが、緊張とは微妙に違った不思議な感覚。

心は夜明け前の湖面のように静謐で、

そこに波紋も立てずにヘラジカの魂が浮かんでいる。



よくぞ、よくぞ僕らのもとへ来て下さいました。

こんなに強く、こんなに美しい命に触れさせていただけることを

心から光栄に思います。

今、僕らはあなたの命をいただき、

いつか自分の命をお返しするまで

あなたを称え続けます。






立ち尽くしていたヘラジカは

ようやく僕らが雌鹿ではないことを理解したようだ。

だからと言って、恐れている感はない。

慌てる様子もなく、

右に方向転換し、ゆったりと歩き始めた。

巨大な体躯が顕わになる。

これ以上望みようもない、絶好のシチュエーション。

1歩、2歩、3歩、4歩、5歩。

6歩目でドナのライフルが火を吹き、

轟音が静寂を切り裂いた。

一瞬、天を仰いだヘラジカは

グシャリとその場に崩れ落ちた。








こうして、僕らの6日間にわたるヘラジカ猟は完遂された。

体重は360キロほど、4歳くらいの若い雄だった。

小雨が降りだす中、

解体を終えて全ての肉をトレーラーに積み込むのに

4人がかりで5時間を要した。

ここ数年、北海道で行う自分の狩猟では

こんなに大変な思いをすることはなかった。

僕は改めて、肉を得ることの大変さ、

そして強い覚悟と揺るぎない信念の大切さを

学ばせていただいた。



同時に感じていたのが、

命をくれたヘラジカに対する

何とも言えない愛しさだ。

自分自身、そして大切な家族や友人の

腹を満たしてくれる獲物。

自ら望んだ訳ではないだろうが、

結果的に命をくれた彼は

山川草木が人間に与えてくれる寵愛を

ヘラジカという形に凝縮させたものに思える。

そして、それを懸命に追い、獲り、祈り、

きちんとした肉にして皆に分け与える、

途轍もなく大変なハンターの行為も愛だ。

全てが愛という言葉に集約される気がして、

そんな感慨に耽っていたら、

涙が溢れそうになった。

猟場で泣くと、キースに怒られる。

ただしそれが嬉し泣きなら

許されるのではないだろうか。

そう思いながらも

やはり僕は涙を堪え、

波のように押し寄せる幸福感を浴び続けていた。






ヘラジカを撃ったその日の内に

僕らは山を降りた。

キースの家に辿り着いたのは

夜8時を回っていた。

全ての肉を、専用の貯蔵小屋に吊るし、

ハンノキの薪を焚いた煙で燻し始める。

今回僕が手伝うことができたのはここまでだ。

こうして10日ほど熟成した後、

肉は細かくトリミングされ、切り分けられる。

部位によってはある程度火を通し、

1食分ずつ真空パックに詰め、冷凍される。

山を降りた翌日から

休む間もなく熟成や精肉の作業が行われる。

ヘラジカ1頭分の肉を完全に処理するには

なんと28日という日数がかかるという。





朝から晩まで、

目の前に山積したミッションをこなすために

後先を考えずに肉体を酷使した1日。

久しぶりに暖房を効かせた部屋で

ゆっくりベッドで寝ようと考えていた矢先、

キースが裏庭で焚き火をしようと言い出した。

ブランドンがあっという間に火をつけると、

ドナは嬉々として、

家からビールをケースで持ち出してくる。

どれだけアウトドアが好きなのだろうか。

驚きを通り越し、半ば呆れている僕を尻目に

盛大な宴が始まった。

未だに文明社会に戻りたくない先住民たちの

最後の悪足掻きだ。






その夜。

僕は改めてキースに問うた。

「スーパーでも肉は買えるのに、なぜ狩猟をするの?」

僕自身が、よく聞かれる質問だ。

自分なりに答えることはできる。

でも敢えて、キースがどう答えるのかを知りたかった。

キースは一瞬面食らったような顔をしたが


“Because I have to bring meat to my people.”

と答えてくれた。

直訳すれば「一族に肉を届ける必要があるから」となる。

質問の答えになっていないような気もするが、

僕にとっては十分だった。

彼の言う“meat”が

店で買う肉とは次元を異にするものであり、

その言葉の裏にどれだけの苦労が存在し、

強い想いが込められているかを知っているからだ。


炎を見ながらキースが呟く。

「今年のヘラジカ猟は、これで終わりだ」

今までヘラジカは年に2頭獲ってきたキースだが、

今後は1頭しか獲らないと言う。

キースが狩猟を仕込んできたドナの息子が、

自分でヘラジカを獲れるようになったからだ。

実際、僕らが山に籠っている間に

彼は湖のほとりで雄を1頭獲り、

ボートに肉を満載して帰ってきた。

どのようにしてそのヘラジカを獲ったのか、

ドナの息子の話を聞くキースの表情は慈愛に溢れ、

最高に嬉しそうだった。

ブランドンが1人でヘラジカを仕留める日も

そう遠くはないはずだ。

そしていずれキースが山に入れなくなる日が来た暁には、

キースが長老たちに肉を届けてきたように

彼らがキースに肉を贈るだろう。

ユーコンの先住民にとって、

いや、狩猟採集民族として生きてきた全人類にとって、

それこそが「一人前になる」ということなのだ。



夜が更け、気温も氷点下に落ちてきたが

誰も家に入ろうとは言い出さない。

ブランドンはいつも通りにひたすら薪を足し、

火の勢いは増すばかりだ。

顔が火照り、体は芯から温まっている。



この炎のように

高い熱量で命を燃やし、

潔く燃え尽きることができたら

どれだけ素敵なことだろう。

でも今日までの過酷な6日間、

もしかすると僕らはそのように

生きることができていたのかもしれない。



“To the mountain!”

突如キースが大きな声を上げ

ウィスキーを焚き火にかけた。

青白くまばゆい炎が上がり、

火を囲む仲間たちの最高の笑顔が

瞬間的に暗闇に浮かび上がる。

彼らの後ろに、あのヘラジカの姿が見えた気がした。

勢いよくはぜる薪。

火の粉が僕らの背丈より高く立ち昇り、

夜空を覆う星の中へと溶け込んでいった。






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